自鳴琴・9




 その日の食事は、ガイが離れまで運んできた。
 両親は共に食事をすることを望んだようだったが、ジェイドがやんわりとそれを止めたのだと聞いて、アッシュは複雑な気分を感じずにはいられなかった。
 たしかにいまのルークでは両親と食事をするのはとてもではないが無理だろうし、かといって自分だけが食事の席に出るのもなんとなく気が引ける。それに、もしルークだけをおいて部屋を出て行ったら、その後にどんな騒ぎが待っているのか想像するのも怖い。
「起きろ、レプリカ」
 ベッドの上で丸くなっているルークを強く揺さぶって起こすと、寝ぼけ眼を擦りながらなんとか起きあがる。その仕草を見て、食事の支度を広げていたガイがかすかに目を和ませたのに気がついて、アッシュはさらに複雑な気持ちになった。
 そんなアッシュの複雑な心境などまったく気にしていないかのように、ルークはさっそくアッシュの方へ手を伸ばしてきた。その手を反射的に振り払いそうになるが、ガイが見ていることに気が付いて、仕方なくさせたいようにさせる。
 それでも押さえきれなかった苛立ちに、アッシュは子供のように袖を掴んでくるルークの手を強く引くと、半ば引きずるようにしてテーブルの方へルークを連れて行った。
 ルークは意外にも、ガイの顔を見ても昨日のように怯えた顔は見せなかった。すこしは慣れたのだろうかと軽い安堵を覚え、そしてそんなふうに思った自分に苦い思いを感じる。
 ルークのことを心配しているわけではないのだと自分の心の中でいいきかせながらも、それが酷く空しい行為なのだということは薄々わかっていた。
 ルークの存在を拒みたいと思う気持ちも、すでに自分の中では矜持どころか単なる意地から出ている気持ちなのだということもよくわかっている。だがそこで素直にそれを認められないのが自分という人間で、そんな自分がひどく狭量な人間に思えることも、アッシュの複雑な心境に拍車をかけていた。
 用意された食事は、どれもアッシュの好みに合う物ばかりだった。それはルークも同じなのか、アッシュの隣でガイに食べさせてもらっているその表情がどこか嬉しげに見える。
 あらかた食べさせ終えただろうかとしばらしくてそちらを見ると、ガイがさりげなくルークの口元についた食べかすをナプキンでぬぐってやっていた。今朝までは決してアッシュ以外が触れることを許さなかったルークが、大人しくそれを受け入れているのを見て、アッシュは軽く目を瞠った。
 やはりさすが元世話係というべきだろうかと思いながら見ていると、それに気がついたガイがかすかに唇の端をあげる。それを見て、アッシュはこのまま彼がこの屋敷にとどまってくれないだろうかと本気で思った。
 自分にしか懐いていないとはいえ、アッシュは自分がルークの世話を見られるとは最初から思っていない。
 どう考えても、これからのルークの世話には誰かの手が必要になる。それにはできるだけルークが順応できる相手が望ましく、またルークのことをきちんと理解できる人間が必要だった。
 その点では、ガイは理想的だった。
 生まれたばかりのルークの世話を一手に引き受けていたのは彼だったし、誰よりも長い間ルークと一緒にいた実績がある。それだけではない。ガイはルークを親友としてまた主人として、強く思っている。だから、利害の関係なく親身に尽くしてくれるだろうということが望める。
 だが、ガイはマルクトの伯爵位を持つ貴族だ。以前のような身軽な身分ではない。ガイ自身がよくても、他国の貴族に子守のような真似をさせることが色々と問題にならないはずがない。
「アッシュ、話がある」
 ままならない物だとため息をつきかけていたアッシュは、今度はルークの頬を撫でることに成功したガイの声に、うつむきかけていた顔をあげた。
「俺はこのまま屋敷に残って、ルークの世話をすることになった。もう公爵様にも奥様にも許しは得ている」
 まるでアッシュの心の声を見抜いていたかのようなガイの話に、アッシュは目を丸くした。
「とは言っても、使用人として戻るわけじゃない。ジェイドたちがルークの記憶を取り戻す方法を探しているあいだの、連絡係兼ルークのお守りだ。ま、本当に使用人に復帰しても俺はかまわないんだがな」
 ガイは冗談めかすようにちいさく肩をすくめたが、まんざら嘘でもない口ぶりにアッシュは眉をひそめた。
「……おまえはマルクトの貴族だろう。そんなことが許されるのか?」
「本来は許されないだろうな。だけど俺はもともと、ルークがもどってきたらファブレ家に帰参するつもりだった」
 ガイはきっぱりとそう言い切ると、不思議そうに自分を見あげているルークを目を細めて見つめた。
「今度こそ、絶対に側から離れないと決めていたんだ。もちろん、ルークが望んでくれたらだけどな……。でも、いまのルークには誰かの手が必要だろう? だったら俺は迷う必要なんてない。今度こそ、必要なときに側にいてやりたいんだ」
 その声には、後悔の色が濃く滲んでいた。それがなにを思ってのものなのか何となく察したアッシュは、それ以上訊ねることをしなかった。それに、実際ガイが戻ってきてくれるのなら、これ以上都合のいいことはない。
「……助かる。俺には面倒は見切れないからな」
「だろうな。はっきり言って、お前が思っている以上に大変だぞ」
 ガイは苦り切った顔のアッシュに笑いかえすと、またアッシュの腕にだきついているルークを見下ろした。
「お前から引き離すのはまだ当分無理だろうからな、しばらくは気長にやっていくしかないな」
「迷惑な話だ」
「まあ、そう言いなさんな」
 ガイはからかうようにそう言って笑うと、ふと表情をあらためた。
「なあアッシュ、ひとつ頼みがある」
「なんだ?」
「これから色々ともどかしいことも多いと思う。だけど、記憶のないルークを責めるようなことはしないでくれ」
 いったい何を言い出すのかと驚いて顔をあげると、真剣そのものの青い瞳と視線があった。
「俺たちは、知らなかったとはいえそうやって一度ルークを追い詰めて、間違った方向に歪めて育てた。以前のルーク……お前と比較して変わってしまったことを責め、思い出せないことを責め、元に戻ることを強要してルーク自身を見てやらなかった」
 それは、たぶん仕方がない反応なのだということはわかる。誰だって自分を忘れ去られてしまったら、思い出して欲しいと願うだろう。それに、あまりに変わり果てた姿を見たら、元通りのその人に戻って欲しいと願う気持ちもわかる。
 だが、その思いを向けられる本人はいったいどうなのだろう。
 思い出せないことを責められ、落胆する相手に答えられない自分を歯がゆく思うだろう。
 しかもルークを取り巻く状況は、そんな子供に優しかったとはとても思えなかったことを、アッシュは今更のように思い出す。
 ただ優秀であることを求められ、そしてそれが当然のように思われていたあの頃。自分を取り巻く状況は決して甘いものではなかった。当然のように以前の自分とおなじ物を求められ、そしてできないことに蔑みの目を向けられていたのだろう。
「俺は、同じ間違いをくりかえしたくない」
 ぽつりとそう呟いた青い瞳には、苦い色が見えた。
「……なんで、そんなことを俺に言う」
「おまえ、さっきルークを連れて逃げただろう」
「違う、あれは……」
 否定しかけて、それが空しい行為だと言うことにすぐに気が付く。どう言い繕ったところで、あの場からルークを逃がしてやりたいと思ったのは事実なのだから。
「それだけを守ってくれれば、俺はなにも言わない。後はお前たちの問題だからな……」
 複雑な表情で黙り込んでしまったアッシュに、ガイは見守るような静かな笑みをみせた。
「本当のことを言うと、俺はルークが記憶を失ってくれて良かったとどこかで思っている」
 唐突なガイの言葉に、アッシュは思わずまじまじとその顔を見つめた。
「もちろん忘れられちまったことはショックだったし、ルーク自身可哀想だとも思う。そう思うこと自体がルークを否定しているってことも、よくわかっている……。だけど頭の隅っこの方では、ルークにあの頃の記憶がなくなってよかったのかもしれないと思っている自分がいる」
「わけがわからねえ……」
 誰よりもルークが記憶を失ったことを嘆いているようだったガイの意外な言葉に、アッシュは顔をしかめた。
「このままでいいはずねえだろう。てめえらだってこいつだって。それに、いつまでもこのままだなんて冗談じゃねえ。迷惑だ!」
「わかっている。俺だってルークに元に戻って欲しいと思っている。でもな……」
 ガイはそこで一度言葉を切ると、ふと瞳に翳りを落とした。
「どちらがあいつにとって幸せなのか、俺にはわからないんだよ」
 すうっと、首筋のあたりが冷たくなったような気がした。間違っていると否定するのは容易い。だが簡単にそう言わせないだけのなにかが、その声の中にはあった。
 だけどそれが何なのか、アッシュには理解することは出来なかった。


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