自鳴琴・12




 ジェイドがふたたびファブレの屋敷にやってきたのは、アッシュたちが帰還してから一ヶ月後のことだった。
 ルークの検診のためにやってきた彼は、相変わらずアッシュにくっついて離れようとしないルークを見て、苦笑に似た笑みを浮かべた。
「なにか、変わったことはありませんでしたか?」
 あまり見ているとルークが怯えると判断したのか、ジェイドはアッシュへ視線を移すといつもの淡々とした口調で訊ねてきた。
「特にはない。少し語彙が増えて、食事を自分で食べられるようになったくらいだ。下手くそだけどな」
「なるほど。子供よりは上達が早いようですね。やはり、身体的記憶は多少残っていると考えていいでしょう。ただ、それに結びつく学習の記憶がないために元の通りとはいかないようですが」
 何気なくのばされたジェイドの手に、びくりとちいさくルークが震える。ジェイドは複雑な表情でルークを一瞬見つめると、そっと手を引っ込めた。
「……見知った相手でないと、同じ反応をする」
「おや、もしかして慰めてくれているのですか?」
 意外だという口ぶりでジェイドは笑うと、からかうような眼差しをアッシュにむけてきた。それにアッシュが渋面をむけると、ジェイドはいつもの煙に巻くような笑みを口の端に浮かべたが、それ以上突っ込んでくることはなかった。
「それでは、簡単な診察と一緒に体内音素等の検査も行いたいのですが」
「ここを使え。俺はでている」
 そう言いおいてアッシュが出て行こうとすると、それを素早く察したのかルークがアッシュの服の裾を掴んだ。
「やだ。アッシュもここにいる」
「我が儘言うな。良い子にしていろ」
「やだ!」
 ぎゅうっと掴んだ裾を強く引くルークに、アッシュは怒ったような顔をみせた。
「言うことを聞け。そいつは悪いことはしない。……たぶんな」
「おやおや、信用がないですねえ」
「てめえだからな」
 アッシュは座った目で軽くジェイドを睨みつけると、自分の服の裾を掴んでいるルークの手を強く握った。
「いいから、こいつのいうことを聞いて大人しくしていろ。そうしたら、後で相手をしてやる」
 上目づかいに見あげてくるルークに思わず頷いてしまいそうになりながらも、アッシュは厳しい表情を崩さなかった。それを見てルークは端から見ても可哀想なくらいに落胆した顔になったが、渋々とアッシュの服を離した。
「別に保護者同伴でもかまいませんよ」
「いや、これからも何度もあることだ。いつまでも誰かがいなければ医者にもかかれないんじゃ、先が思いやられる」
 きっぱりと首を横に振ったアッシュにジェイドは軽く口角を上げると、そうですかと頷いた。
「……あとで、本読んで」
「わかった。だから大人しくこいつのいうことを聞け。……悪い奴じゃない」
 たぶんルークにとってはという言葉をのみこんで、アッシュはジェイドの方へ複雑な視線をむけた。本当は色々と異存のある言葉だったが、そうでも言わなければルークがいうことを聞かないことはわかっている。
 理解力も子供なみになってしまったルークには、いいわけや微妙な言葉の意味は伝わらないのだ。
 しょげながらも頷いたルークの頭の上に軽く手を置いてやると、不安そうだった顔にようやくすこし笑みが浮かぶ。何度か宥めるように軽く頭を叩いてから、アッシュはハッと気が付いてジェイドの方をふりかえった。そこには予想していたとおり、その様子をにこやかな笑みを浮かべて眺めているジェイドがいた。
「いやあ、すこし会わない間にお子様の扱いが上手くなりましたね」
「うるせえっ!」
 怒鳴り声にびくりとルークが跳ねあがったのに気が付いて、アッシュは慌てて宥めるように頭と頬を撫でてやった。それに安心したのか、ルークはすぐに笑みを浮かべると、アッシュに抱きついてきた。
「さて、いつまでもこうしていても仕方ありませんから。あなたは外にいてください。ルーク。あなたに触りますけれど、よろしいですか?」
 ジェイドはそう断って、ルークの返事を待つ。そして、ルークがまだすこし戸惑いながらもちいさく頷いたのを見てから、ゆっくりと手を伸ばした。
 その手が触れた瞬間、ルークの体が小さく震えたのが見えた。だが、触れただけで動かないジェイドの手にそろそろと顔があげられ、不思議そうにジェイドの顔を見あげる。
「大丈夫ですか?」
 いままでアッシュが一度も見たことのないような顔でジェイドはルークの顔を覗きこむと、小さいがはっきりとした声で訊ねた。
「……うん」
 まだ不思議そうな顔をしながらも、こくりと朱色の頭が頷く。それを受けてジェイドはちらりとアッシュの方へ視線をむけると、外に出るように促した。アッシュは音を立てないようにして部屋の外に出ると、中庭に降りてベンチへ腰をおろした。
 座ってからも、アッシュは無意識のうちに離れの方にむかって耳をすましている自分に気が付いて、眉間に皺を寄せた。
 もう習い性になってしまっているとはいえ、これでは過保護な親か飼い主のようだ。
 ジェイドがルークのためにならないことをするはずがないことは、良くわかっている。
 なんのかの言いながらも、あの当時ルークと一緒に旅をしていた仲間たちは総じてルークに甘い。それは、あのネクロマンサーの二つ名を冠された軍人とて例外ではない。
 ジェイドがルークにむける表情には、他の人間にはむけない優しさがある。先程ルークに触れるときだって、ジェイドは壊れやすい大切な物に触れるときのような、真剣そのものの顔をしていた。
 アッシュは、具体的に二人の間にどんな交流があったのか知らない。ただ知っているのは、どうやらジェイドがレプリカであるルークに対して一種の負い目のようなものを感じているらしいと言うことだけ。
 だが彼にあんな顔をさせたのは、それだけが理由ではないはずだ。
 アッシュは、なぜか胸の奥の方が見えない羽根で撫でられているような、ざわついた気持ちがこみ上げてくるのを感じて顔をしかめた。それがなんなのかはわからないが、不快な気持ちであることだけはたしかだった。
 そんな自分の気持ちを抑えこむように、アッシュは大きく息を吐いた。屋敷の中にいるだけの生活とはいえ、やはりルークに四六時中つきまとわれているせいか、すこし疲れているのかもしれない。
 ベンチの背にもたれかかりながら空を見あげ、アッシュは目を細めた。
 広くひらけた中庭から見あげた空は、決して小さくはないが丸く切り取られた空の一部でしかない。
 そして、ダアトで与えられていた私室にあった窓から見る空は、これよりもずっと小さかった。
 もちろんアッシュは空がもっと広いものだと知っていたし、実際に子供の頃から普通に広い空を見たことがあった。だけどもしかしたら、ヴァンの計画を知って自分からダアトを飛び出すまで、自分はあのダアトの窓から見た小さな空とこの中庭から見える丸い空しか知らなかったのかもしれない。
 それは、この丸い空の下だけで七年間生きてきたルークと、何が違ったのだろうか。最近ふと気が付くと、そんなことを考えている自分がいる。
 自分がどうしたいのか、そしてこれからどう生きてゆくのかすこしわからなくなっている気がする。
 もちろんキムラスカのために働きたいと思っている気持ちには、変わりはない。だがこのまま自分だけで歩き出してしまっていいのだろうかと、引っかかる気持ちもある。
 だがそう考える傍らで、アッシュはルークがこのまま記憶を取り戻さなくてもいいかもしれないと思ってもいた。
 いまのアッシュの不安定な心を支えているのは、間違いなくルークの存在だ。彼が無心にそして心から慕ってくれるから、アッシュはここにいなければならないと実感できている。
 だがそれは、元の自分たちの関係が継続していたら決して願えなかった関係だ。
 彼の記憶からこぼれ落ちてしまっていることを悲しむ人たちがたくさんいるのは、わかっている。もちろんアッシュ自身も、あの激しく辛い日々のすべてを忘れてしまったルークに、苛立ちを覚えることもある。
 自分が犯した罪もアッシュがぶつけた憎悪も、ルークはすべて忘れてしまったのだから。
 だけどルークが記憶を取り戻せば、間違いなくいまの関係は失われる。
 今となっては、アッシュは自分が本当はどちらをより強く望んでいるのかわからなくなっていた。
 アッシュはため息をつくと、髪を掻き上げた。
 外に出るのなら、本の一冊でも持って出てくるのだったと、アッシュは今更のように後悔する。
 こんなふうにぼんやりとしていると、とりとめのないことをいつまでも考えてしまう。特に今は与えられた仕事があるわけでもないので、余計に思考に費やす時間が多くなってしまうのだ。
 アッシュは一度離れの方へ目をやってから、ベンチから立ちあがった。ルークの診察にはまだしばらく時間がかかるはずだ。そのあいだ書庫に行って、後でルークに読んでやる本を見繕ってくるくらいの時間はあるだろう。このままここでぼんやりしていても、余計な思考を巡らせるだけなのだから。
 そう決めると、アッシュは母屋の書庫へと足を向けた。
 途中でルークの声がきこえないかと一瞬だけ気になったが、すぐに思い直すとそのまま書庫へと入った。
 書庫の片隅には、忘れ去れたようにアッシュが幼い頃に読んでいた本が収められた一段がある。懐かしいタイトルを追いながら本を選びはじめてしばらくすると、アッシュはいつしか当初の目的をすっかり忘れて本を選ぶことに夢中になっていた。


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