自鳴琴・13




 ようやく本を選び終えてふと我に返ったアッシュは、思っていたよりも時間が立っていたことにようやく気が付いた。慌てて本を抱えて書庫を出ると、早足で中庭へと向かう。
 診察が終わって部屋からでたルークが、自分の姿が見あたらなければすぐに騒ぎ出すだろう。ふと、それに困惑するジェイドを見てみたいという誘惑にもかられるが、下手に両方の機嫌を損ねるとその後のフォローの方がやっかいだ。
 それでなくても、ジェイドは自分がルークに怯えられていることに思うところがあるらしく、最初からアッシュへのあたりがきついのだから。
 だが足早にむかった中庭でアッシュが見た光景は、思わずその場に立ちつくしてしまったくらいに意外な物だった。
 先程までアッシュが座っていたベンチに、いつもと変わらないマルクト軍の青い軍服をまとったジェイドが座っている。だがアッシュの足をとめたのは彼の姿ではない。その隣に寄りそうようにして一緒に座っている、ルークの姿だった。
 ジェイドは手にした書類の束に目を通しながら、時々思い出したように青い手袋に包まれた手でルークの頭を撫でている。ルークはそれをいやがるどころか、気持ちよさそうに目を細めている。
 一瞬、体の内側にあるなにかが固く凍り付いたような気がした。
 だがすぐにアッシュは我に返ると、なにかを振り払うように軽く目を閉じて小さく首を一度振ると、中庭に降りた。
 アッシュの姿に気が付いたジェイドが、ルークを促す。ルークはアッシュの姿を見つけると、慌てたようにベンチから立ちあがってアッシュに飛びついてきた。
 触れてくる温かな体温と甘い匂いが、一瞬だけ感じた冷たく固いなにかを溶かしてゆく。アッシュは空いている方の手で軽くルークの頭を叩くと、そんな彼らを苦笑混じりに見つめているジェイドへ視線をむけた。
「どうだった?」
「俺、大人しくしてた!」
「てめえには聞いてねえよ」
 軽く額を小突くと、ぷくりと不満そうにルークは頬をふくらませた。
「ちゃんと言うことを聞いて、大人しくしていましたよ。意外でしたね、あなたに子守の素質があるとは……」
「ふざけるな。それで結果は?」
「体調は万全ですね。音素の乱れも見られませんし、血中音素濃度も正常値。身体的にはいたって元気ですね」
 ジェイドは薄く笑みを浮かべると、ちらりと一度ルークを見た。
「……ルーク。先にガイの所に行っていろ」
「アッシュは?」
「俺は後で行く」
 そう答えたアッシュの顔をじっと見あげてから、ルークは視線を移すと、問うような目でジェイドを見あげた。
「私も後で行きます」
 不安そうに二人の顔を見ていたルークは、ジェイドの笑顔としっかりと宥めるように撫でてくれたアッシュの手に背を押されるようにして、何度もこちらをふり返りながら母屋の方へ走っていった。
「すっかり、いいお父さんですね」
「だれが父親だ!」
 アッシュは苦々しい表情でジェイドを睨みつけると、小さく舌打ちした。
「……それで、なにかわかったのか?」
「あいにくと、何も……。ようやく最低限の意思の疎通は取れるようになりましたから期待していたのですが、やっぱり本当になにも覚えていないようですね」
「そんなことはわかっている。で、なにか治療法は見つかったのか?」
「そちらもお手上げですね。そもそも一般的に記憶喪失とは、何らかの原因でいままでのその人に関する記憶を思い出せない状態のことを言います。ですがルークの場合、そもそも思い出す記憶自体が抜け落ちている可能性もありますから」
「……再構成か」
「ええ。ルークは、ローレライ解放の前にはすでに、取り返しのつかないほど音素乖離が進んでいました。もし大爆発が回避されたとしても、あのまま戻ってこられる可能性はほぼゼロに等しかった」
 何度聞いても嫌な話だ。ようするにあの時、自分もルークも互いに自分の命が尽きようとしているのを知っていて戦っていたわけだ。もっとも、自分の方は単なる勘違いだったのだが。
「ルークはレプリカです。さらに言えば、あなたと同じくローレライの同位体でもある。第七音素の集合体であるローレライによるルークの再成は、可能性がないとは言い切れません。だがその時に、記憶に関する音素がすでに失われてしまっていたのか、あるいは……」
 ジェイドは言葉を濁すと、眼鏡越しにアッシュに視線を合わせた。
「俺にはルークの記憶はない」
「……ええ。ですからこの場合は記憶に関する音素が失われたと考えられます。まあ、ローレライにでも確かめなければ、真実かどうかはわかりませんけどね」
 小さく肩をすくめたジェイドに、アッシュも一瞬だけ空を仰ぎ見ると小さく舌打ちした。
「一応お聞きしますが、ローレライとの接触は?」
「こっちに戻ってからは一度もない」
「そうですか……」
 ジェイドは眼鏡のブリッジを指で押しあげると、なにかを考えこむように軽く眉根を寄せた。
「ひとつお願いがあるのですが」
「なんだ?」
「記憶障害の治療方法のひとつに、催眠療法というものがあります。催眠状態の時に無意識下に働きかけて、意識のどこかに眠っている記憶を引き出すための療法なのですが」
「聞いたことはある」
「記憶がない理由ははっきりしませんが、もし何らかのショックが原因で記憶が眠っているだけなら、試してみる価値はあると思います」
「おまえがやるのか?」
「いえ、あなたが」
 唐突なジェイドの答えに、アッシュは思わずまじまじと相手の顔を見返した。
「俺が?」
「ええ。もしまだあなたとルークのフォンスロットが繋がっているのでしたら、普通に催眠をかけるよりもあなたがフォンスロットを通じて意識を同調させた方が、効果は高い」
「……まだ繋がっているかどうかは、試したことがねえ」
「賢明だと思いますよ。いまの不安定なルークでは、いきなりそんなことをされたら恐慌状態に陥るかもしれません。できれば眠っているときにでも、一度試してみてはいただけませんか?」
 アッシュはすこし考えてから、頷いた。どちらにしろ、今はこれといってなにかいい手があるわけではない。だとしたら、すこしでも可能性のあることは試してみるべきだろう。
「わかった。考えておく」
「ありがとうございます」
 ジェイドはかすかに笑みを浮かべると、軽く会釈した。
「それともう一つ。明日マルクトに帰りますが、その時ガイを連れて行ってもよろしいですか?」
「随分と急な話だな」
「じつは少々不穏な空気があるようなので、一度彼にこちらに戻って方々に顔を出していただかないといけなくなりましてね……。陛下が色々と便宜を図ってはいたのですが、色々と抑えの効かない点も出てきまして」
 主にお年寄り方面とか、反キムラスカ方面とか。苦笑いするジェイドに、アッシュも似たような表情でなるほどと頷く。
「仕方がないだろうな……。前のように、マルクトの国益に関することで動いているわけじゃねえからな」
 いくら今では友好関係を結んでいるとはいえ、本来キムラスカとマルクトは仇敵同士の国柄だ。上層部は友好かつ密接に繋がっているが、まだまだ確執は根深い。
「俺は別にかまわない」
「ルークの方はどうですか?」
「ンなこといっている状況じゃねえんだろう? てめえがわざわざ迎えに来たくらいだ」
「察しが良くて助かります」
 ジェイドはいつもの、知るものには胡散臭く見える笑みを浮かべた。
「話はそれだけか?」
「ええ。そろそろ行きましょうか。あまり待たせては、ルークに悪いですから」
「そういえば随分と急に懐いたな……」
 何をしたと視線だけで問えば、意味ありげな笑みが返ってくる。
「妬けますか?」
「ばっ! 誰がっ!」
「おやっ? 図星ですか?」
「てめえ……」
 はぐらかされるだけでなく完全に遊ばれていることに気付いて、アッシュはジェイドをおいてさっさと自分だけ母屋の方へ足を向けた。後から押さえた笑いの気配が追いかけてくる。やっぱりこいつは苦手だ、とアッシュはあらためて強く思う。
 だからなのか、先程感じた奇妙な感情のことはすっかり忘れてしまっていた。


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