自鳴琴・15




***


 誰かに、呼ばれたような気がした。
 アッシュはそれに答えるように瞼を開くと、あたりを見まわした。
『ここは……?』
 そこは、周囲全体から淡い光が発せられているような、不思議な空間だった。
 上を見あげると、螺旋状に続く足場が歪な楕円を描いて降りてきているのが見える。時折不思議な光をはなつその足場は、石とも金属とも違う不思議な素材で出来ていて、ところどころに譜術の象徴に似た模様が刻まれている。
 そして自分はいまその螺旋回廊の底にいるのだと気が付いて、アッシュは大きく瞬きをした。
 この光景には見覚えがある。
 あの戦いの中でいくつかまわった、パッセージリングのある古代文明の遺跡の中だ。
 でも、なぜこんな所にいるのだろうと首を傾げて視線を巡らせると、驚くほど近くに、あの音叉を大きくして二つあわせたような不思議な形状の巨大な音機関がそびえていた。
 そして、また名を呼ばれる。
『なんだ……?』
 アッシュはその声に違和感を覚えながら、もう一度瞬きをする。
 すると、今度ははっきりとその声が聞こえた。
(ルーク)
 自分の物であって自分の物ではない名を呼ぶその声に、ハッとする。
 この声を、自分はよく知っている。
 魅惑的で力強く、そして抗いがたい響きを持つこの声を。
『ヴァン……っ!』
 その名を心の内で叫んだ途端、背後にかつての師の気配がたったのがわかった。
(よし、そのまま集中しろ)
 甘く唆すような、やわらかな声の響き。その声に逆らうことなく自分の手が上がってゆくのに、アッシュは目を見開いた。
 これは、いったいなんだ?
(さあ……『愚かなレプリカルーク』。力を解放するのだ!)
 何かが弾けるような乾いた音が、体の中で響いた。
 強い衝撃波が起こす風に煽られ、そして体の奥底からなにか得体の知れない力が膨れあがってくる。
(な…なんだ?)
 動揺しきった声が耳に響く。
 何が起こっているのか理解できない。そんな戸惑いの声。それと同時に頭の中に、見たことのない光景が次々と浮かんでは消えてゆく。
 ひろがる青い海。客船の甲板。背後から包み込んでくる、大きな体と強い腕。
 そして囁かれる甘い言葉と、同じくらいに甘い呪いの言葉。
(──合い言葉は、『愚かなレプリカルーク』)
 体の奥で弾けた強大な力の衝撃に、体が心が悲鳴をあげる。

 ──どうして? どうして?
   それは一体どういうことなんですか?
   いやだ、怖い。
   助けて! 助けて!
   どうして助けてくれないんですか? 師匠。
   ……あの時みたいに。

 荒れ狂う力の奔流に翻弄されながら、混乱しきった思考があちこちに跳ぶ。ただ泣き叫ぶだけの心の声に、押しつぶされそうになる。

『これは……』

 白い光が自分を中心に膨れあがり、すべてを呑みこんでゆく。
 目の前のパッセージリングも、そしてひとつの街すべてを。
 この光景を、アッシュは知っている。
 
『アクゼリュス……!』

 轟音と共に、すべてが崩れ落ちてゆく。
 がくりと膝をついた感触とともに、恐ろしい疲労感がのしかかってくる。
 そして、注がれる冷たい眼差し。
(……ようやく役に立ってくれたな。レプリカ)
 冷ややかな嘲笑と、侮蔑の滲む声。
 その声に、心が軋み音を立てるのが聞こえた。
(せんせ…い……?)

 ──どうしてそんな目を俺にむけているの。
   どうして今にも倒れそうな自分を支えてくれないの。

 救いを求めて手を上げようとするのにかなわず、なんとか向けることの出来た瞳に冷笑を浮かべるヴァンの顔が映る。
 なにかひどく汚い物を見るような、冷ややかな眼差し。その瞳に刺し貫かれるような痛みを感じたと同時に、プツリと何かが切れたように視界が真っ暗になった。

 ──どうして? なんで?
   何が起こっているのか、誰か教えて。
   怖い怖い怖い。
   痛い痛い痛い。
   どうして誰も教えてくれないの?
   わからないことは、いけないことなの?

 悲鳴を上げる感情の波に呑みこまれる。
 悲痛な声をあげ続ける心。
 そして目の前をめまぐるしくすぎてゆく、おぞましい風景。
 紫色に染まった、泥と海。
 崩れ落ちた街の残骸。そして無数に散らばる物言わぬ死体たち。
 泥の海に沈んでゆく、子供の弱々しい悲鳴。
 それらを目にするたびに、心が軋み音を上げながら悲鳴をあげ血を流してゆくのがわかる。
 どうしてこうなったのか、わからないけれどわかっている。
 だけどそれを認めてしまうのが怖い。
 その原因が自分なのだと認めるのが怖い。自分があれだけ慕っていた師匠に見捨てられたのだと、認めるのが怖い。
 何でこんなことになってしまったのだろう。
 ただ自分はみんなに認められたくて、そして困っている人達を助けたかっただけなのに。
 
 ごめんなさい
 ごめんなさい
 ごめんなさい

 嵐のように通り過ぎてゆく、仲間たちの冷たい眼差しと糾弾の言葉。
 苛々させられる。変わってしまいましたのね。サイテー。幻滅させないでくれ。私が馬鹿だった──。
 そして、アッシュに投げつけられたレプリカという事実と憎しみの刃。それらすべてが激流のように通り過ぎながら、鋭い刃を心にたててゆく。
 
『……これは、レプリカの記憶だ』

 アッシュは呆然と自分を取り巻く激しい嵐のような感情に揺さぶられながら、理解した。
 アッシュの記憶にあるアクゼリュスの最期は、空から見下ろした崩れゆく大地だ。もちろんルークと仲間たちの間にあったやり取りなど知らないし、沈んでゆく子供の悲鳴も知らない。
 そしてなによりも、アッシュはあのパッセージリング消滅の際のいきさつを知らない。ヴァンが何かを言って唆したのだろうと思っていたが、あんなふうに無理矢理ルークの力を引きずり出して使わせたとは思ってもいなかった。
 もちろんだからと言って、ルークに罪がないとは言わない。
 どう言い繕ったところで、なんの疑問も覚えずにヴァンの手を取ったのはルーク自身だ。深く物を考えず、ただ甘い言葉に騙されて何一つ疑うことをしなかったルークの罪だ。でもそう感じながらも、アッシュはそれを愚かだと思うと同時にやりきれない気持ちを感じずにはいられなかった。
 騙されていたのは、どちらも同じ。
 アッシュもルークも、ただ一人を信じすぎて裏切られた。
 甘い砂糖菓子のような言葉を真実と錯覚したのは、どちらも同じ。だからこそ、ルークがヴァンの言葉を盲信するのが尚更許せなかった。
 それでも、まさかあんな方法で無理矢理ルークを使ったなんて、アッシュは知らなかった。
 ただでさえ世間知らずのお坊ちゃまだったルークには、自分が何をされていたのかもわからなかっただろう。それほどに、あの暗示による意識への干渉は凄まじい物があった。
 ヴァンは、徹底的にルークを自分のための道具として使ったのだ。
 道具には意思はいらない。だから無理矢理操った。
 そして必要なくなったから放り出した。壊れかけていようといまいと、もう使う必要がないから。
(誰かのために……)
 ふわりと、風のように小さな囁き声が耳元を掠める。
(みんなの幸せのために……)
 アッシュはたまらず目を閉じた。
 ああ、だから。
 だからあんなにも必死だったのか。
 そして、間違えそうになっていたのか。



 紫色の障気に満ちた、泥の海。
 そこに小さく背中を丸めて、ルークがうずくまっている。
 何度も祈りのようにくり返し唱えられる、謝罪の言葉。
 紫の海には無数の死体が浮かび、無言のままルークを取り囲んでいる。
 ひたすら謝りの言葉を呟き続けるルークの周囲に、小さなさざ波が波紋状にひろがってゆく。
 それはしだいに大きな波となり死体を呑みこむと、渦を巻いた波がまるで壁のようにルークのまわりにせり上がってゆく。  やがてその波が幾つにもわかれ、まるで檻のようにルークを囲む。そして格子のように伸びた泥の先端がまた幾つにも分かれると、それは細長い人の手の形になった。
『何をしているっ!』
 無数の泥の手に囲まれていることにルークは気付かないのか、うずくまったまま小さな声でひとつの言葉をくり返している。
 アッシュはそんなルークに駆け寄ろうと足を踏み出しかけて、自分の足が動かないことに気が付く。
 足元へ目をやれば、ルークを取り囲む泥の手と同じような物がアッシュの足を掴んでいる。慌てて蹴りつけてまとわりつく手を振り払おうとするが、かなわない。
『レプリカっ!』
 思わず叫べば、ぴくりと丸められていた背が揺れ、そろそろと顔があげられる。
 その顔を見て、アッシュは思わず言葉を失う。
 血の気を失った青白い顔に、光を失った瞳。生気の欠片も感じられない、虚脱したような表情。その凄まじい形相に気圧されながらも、アッシュは息を呑みこむと声をあげた。
『レプリカっ! こっちへ来いっ!』
 叫びながら、限界まで手を差し伸べる。
 だがルークはその手をまるで不思議な物を見るような目で見つめるだけで、応えようとしない。
『レプリカっ!』
 もう一度呼べば、今度は本気で不思議そうな表情のまま首が傾げられる。
(……なんで?)
 ぽつり、と訝るような声が返ってくる。
(どうして俺に手を?)
『いいから、さっさとこっちに来やがれっ!』
 前に進もうとすればするほど、足を掴む手の力が強くなる。ルークを取り囲む暗紫色の手たちが、奇妙な形でうねりながらへたり込んだままのルークの体を押しつつむように伸びてゆく。
『早くしろっ!』
 苛立ちをこめて叫べば、怯えたように小さく首が横に振られる。いやだ、と小さな拒絶の声が唇から発せられる。
(いやだ、行かない!)
『馬鹿かテメエはっ! まわりを見ろ!』
 怒鳴りつけてもルークはただ首を横に振るだけで、その場から動こうとしない。
『さっさとしろっ! 俺のいうことが聞けねえのかっ!』
(いやだっ!)
 悲鳴のような叫び声がルークからあがった途端、アッシュは見えない力にはじき飛ばされた。
 泥の中に背中からたたき付けられ、衝撃に一瞬息が止まる。それでもなんとかすぐに跳ね起きると、アッシュは大きく目を瞠った。
 檻のようにルークを取り囲んでいた無数の手たちが、アッシュの目の前でいっせいにルークに向かって伸びる。
 巨大な泥の塊が、ルークを呑みこんでゆく。
 ルークは一言の悲鳴もあげず、アッシュの方をふり返ることもせず、泥の海の中に呑みこまれてゆく。
 最期に白い指先が泥に呑みこまれると、そこから小さな波紋がひろがりアッシュの方までその小さな波が届いた。
 その瞬間、自分の口から意味をなさない叫びが上がったのを、アッシュは確かに聞いたような気がした。
 だがそれは、なぜかとても遠い出来事のようにも思えていた。



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