自鳴琴・17
ルーク失踪の知らせを受けたガイは、迷うことなくすべてを振り切るようにしてバチカルへと帰還した。
たまたまグランコクマへ寄港していたギンジの操るアルビオール3号機を捕まえられたのは、僥倖と言って良かっただろう。文字通り飛んでバチカルへ戻ったガイを待っていたのは、突然のルークの失踪に浮き足立つファブレ家の家人や使用人たち。そして、奇妙な沈黙を保っているアッシュだった。
今のルークが自分から望んで屋敷の外へ出ることは、まずありえない。
記憶の欠落と精神の退行で心身共に不安定だったルークは、どちらかといえば外の世界に怯えているようにも見えていた。
実際ルークは屋敷に戻ってから一度も玄関ホールへは足を運んでおらず、外に興味のある素振りも見せたことがない。それに今のルークでは警備の厳重なこの屋敷を抜け出すことは、まず不可能に近い。
可能性があるとすれば誘拐だが、自分がいなかった分、ルークは常にアッシュにまとわりついていただろうと考えると、それも考えにくかった。
ルークの失踪に一番最初に気が付いたのは、当然と言えばアッシュだった。朝目覚めたときにはすでにいなかったとのことだが、それなら尚更のこと連れ出されたと考えるのは難しかった。
口先ではなんのかのと文句を言いながらも、いまのルークの身に誰よりも一番注意を払っていたのはアッシュだ。人目のある昼間ならいざ知らず、彼がルークが部屋を抜け出したことに気付かなかったとは思えない。
さらに言うなら、ルークがいなくなった前の夜は季節はずれの嵐が猛威を振るっていたという。子供返りしていたルークが、そんな夜に一人で外に出るはずがなかった。
さっそく公爵家では内密にルークの捜索を開始させていたが、ルークとアッシュはキムラスカでも上層部しか知らない極秘事項である。探せる範囲や捜索隊の規模も限られ、難航している。
だがそんな中で、アッシュは沈黙を守っていた。
普段の彼であれば、自らが動けない歯がゆさに苛立ちながらも様々な指示をとばすであろうに、アッシュはまるでそれが無駄であるとでも知っているかのように、ただこの騒ぎを外から眺めているだけだった。
メイドの一人がこっそりと、アッシュ様は冷めてらっしゃるとメイド仲間にこぼして窘められていたのを、ガイは知っている。
誰もがおおっぴらには口にしないが、たしかにこの騒ぎの中でのアッシュの行動は首を傾げざるをえない。だが、だからといって彼がルークのことを心配していないわけではないことは、屋敷の誰もが理解していた。
ガイはアッシュの沈黙をどう捕らえるべきか、判断がつきかねていた。
アッシュの気鬱な様子から、自分がいない間に彼とルークのあいだでなにかがあったのだろうと推測することはできた。しかしそれが即ルークの失踪に繋がるかというと、色々と無理があることはガイにも分かっていた。
ただひとつだけ、おそらくこの屋敷ではガイとアッシュだけがひそかに恐れている可能性がひとつあった。
ガイはあの戦いの中で、レプリカの死を何度も目の当たりにしたことがある。
はじめて見たのは、イオンが死んだときだった。
淡く輝いた後、なに一つ残さず消えたレプリカイオン。
そして、レムの塔で死んでいった一万のレプリカたち。
レプリカは、死を迎えると消える運命にある。関わった人たちの心に、記憶だけを残して。
もしルークが誰にも気付かれずに死を迎えたのなら、いきなり失踪したと思われてもなんの不思議もない。だが、その可能性を認めたくないから、アッシュは沈黙を守っているのではないだろうか。
そう考えれば、アッシュの不可解な反応にも説明がつく。
ガイはため息をつくと、アッシュのいる離れへと目を向けた。
本当は、なにがあったのか今すぐにでも聞きたかった。だけど聞いてしまったら、たぶん自分はアッシュを許せないだろう。そんな予感があった。
「ルーク。おまえ、どこにいっちまったんだよ……」
戻ってきたのは、奇跡だと言われていた。
ガイ自身、ルークが戻ることを信じていたけれど、本当は心の隅でもしかしたらと思わなくもなかった。
だから戻ってきてくれたときは本当に嬉しくて、どんな彼でも戻ってきてくれたのならかまわないと思っていた。
だけど、奇蹟はやはり奇蹟でしかなかったのだろうか。だとしたら、神と呼ばれる存在はどこまで残酷なのだろう。
それでも、自分には奇蹟を願うことしか許されないことをガイは知っていた。
***
ふと、待ち望んでいた笑い声が聞こえたような気がして、アッシュはひろげて眺めていただけの本から急いで視線をあげた。
しかし彼の目に映ったのは、あの日から何一つ変わっていない虚ろな鳥籠のような部屋の壁だけだった。
それに、いまはもう宵の口をとっくにすぎた時間だ。こんな時間にあの子供が起きているはずがない。
アッシュは手元の本のページをパラパラと適当に捲ると、突然興味をなくしたように無造作に本を閉じて机の上に放り出した。
しんと静まりかえった部屋の中は、まるでそこだけが別世界へと切り取られたかのように酷くよそよそしい。ルークと二人でこの部屋にいるときはそんなことを思ったことは一度もなかったのに、アッシュはいま自分がこの部屋にも拒まれているような気がしていた。
あの嵐の夜。明け方頃に散々陵辱しつくしたルークの体を湯に入れて清め、腕に抱いて眠ったところまでは記憶は確かだった。
だが目覚めたときには、ルークはアッシュの腕の中からだけではなく、屋敷のどこにもいなかった。
その時に一番強くアッシュの心の中を支配した感情は、罪悪感でもなく後悔でもなく強い喪失感だった。
失ってしまったのだ、自分は。ただひとつの大切な物を。
そのきっかけを作ったのは自分であり、そして壊したのも自分。
本当は荒れ狂い、泣き叫びたかった。
だが深淵よりも深い喪失感が、それを許してくれなかった。
あの時、つよく拒絶されたことがアッシュの心を打ち砕いた。夢でかいま見たルークの記憶。それによって彼が『以前のルーク』の記憶を取り戻すのが怖かった。
思い出して元に戻ってしまえば、いまここにいるルークは失われてしまう。ただひたすら、無邪気に自分へ信頼と愛情を向けてくるこの存在が消えてしまう。それが耐え難かった。
だから手を伸ばしてつかみ取った。そして手折ったのだ、自分だけの物にしたくて。
思うがままに蹂躙し、支配して、自分の中にあった強い独占欲を満たすことを一番に望んだ。それがこの結果だ。
自分が行ったあの行為が、ルークの体だけでなく心まで深く傷つけたことをアッシュは知っている。
ルークが完全に意識を失うそのすこし前から、ルークの瞳は完全に表情を無くしてしまっていた。ただひたすら涙を流すだけのものになってしまったガラス玉には、アッシュの姿は映っていたがルークの心の瞳にはおそらくもうアッシュの姿は映っていなかっただろう。
意識を失った青ざめた顔は痛々しいほどに泣き腫らした跡が残が残っており、体にも情事の跡が色濃く残っていた。抱きあげた体は怖くなるほど軽く、アッシュは浴室に運び体を清めいてるあいだにも、何度もルークの呼吸と鼓動を確かめた。
目覚めたルークがどんな反応を示すか怖かったが、どうしても離しがたくて腕に抱いて眠った。
だけど目覚めたときには、ルークはそこにいなかった。
核となる意思が形成されていないルークが、単独で屋敷を抜け出すことはまず考えられない。だとすれば、一番可能性が高いのはルーク自身が失われたことだ。
レプリカは死んでも死体が残らない。なんの形跡ものこさず、そのすべてが無に還るのだ。
だが、どうしてもアッシュはそれを認めることが出来なかった。
だから口を閉ざした。
ルークが消えてしまったという事実すら、いまのアッシュはまだ受け入れることが出来ずにいた。
アッシュはため息を漏らしながら前髪を掻きあげると、置き時計に目をやった。そして時間を確かめると、部屋の明かりを落としてソファへと足をむけた。
あの日から、アッシュはベッドでは眠っていない。ルークの匂いが残るあのベッドで眠るのは、今のアッシュにとっては拷問に等しい。あの嵐の夜のことをまざまざと思い出すだけではなく、ルークを抱きしめて眠っている錯覚に陥りそうになるのだ。
でも本当は、横になってもあの日からアッシュはほとんど毎日眠れずにいた。
ソファに横になるのは、心配する家人たちに眠っていないことを偽るため。実際には、暗闇の中でいくら横になっても、ここ数日のあいだアッシュに眠りが訪れることはなかった。
また今日も眠れずに夜を過ごすことになるのだろう。そう覚悟してソファに身を横たえようとしたアッシュは、突然襲ってきた眠気に強い目眩を感じて、ソファの上に崩れ落ちた。
さすがに限界が来たのだろうか。だがそれにしてもあまりに強すぎる眠気に、不安がよぎる。
しかし結局は逆らいきれずそのままソファの上に突っ伏すと、アッシュは眠りの中に落ちていった。
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たまたまグランコクマへ寄港していたギンジの操るアルビオール3号機を捕まえられたのは、僥倖と言って良かっただろう。文字通り飛んでバチカルへ戻ったガイを待っていたのは、突然のルークの失踪に浮き足立つファブレ家の家人や使用人たち。そして、奇妙な沈黙を保っているアッシュだった。
今のルークが自分から望んで屋敷の外へ出ることは、まずありえない。
記憶の欠落と精神の退行で心身共に不安定だったルークは、どちらかといえば外の世界に怯えているようにも見えていた。
実際ルークは屋敷に戻ってから一度も玄関ホールへは足を運んでおらず、外に興味のある素振りも見せたことがない。それに今のルークでは警備の厳重なこの屋敷を抜け出すことは、まず不可能に近い。
可能性があるとすれば誘拐だが、自分がいなかった分、ルークは常にアッシュにまとわりついていただろうと考えると、それも考えにくかった。
ルークの失踪に一番最初に気が付いたのは、当然と言えばアッシュだった。朝目覚めたときにはすでにいなかったとのことだが、それなら尚更のこと連れ出されたと考えるのは難しかった。
口先ではなんのかのと文句を言いながらも、いまのルークの身に誰よりも一番注意を払っていたのはアッシュだ。人目のある昼間ならいざ知らず、彼がルークが部屋を抜け出したことに気付かなかったとは思えない。
さらに言うなら、ルークがいなくなった前の夜は季節はずれの嵐が猛威を振るっていたという。子供返りしていたルークが、そんな夜に一人で外に出るはずがなかった。
さっそく公爵家では内密にルークの捜索を開始させていたが、ルークとアッシュはキムラスカでも上層部しか知らない極秘事項である。探せる範囲や捜索隊の規模も限られ、難航している。
だがそんな中で、アッシュは沈黙を守っていた。
普段の彼であれば、自らが動けない歯がゆさに苛立ちながらも様々な指示をとばすであろうに、アッシュはまるでそれが無駄であるとでも知っているかのように、ただこの騒ぎを外から眺めているだけだった。
メイドの一人がこっそりと、アッシュ様は冷めてらっしゃるとメイド仲間にこぼして窘められていたのを、ガイは知っている。
誰もがおおっぴらには口にしないが、たしかにこの騒ぎの中でのアッシュの行動は首を傾げざるをえない。だが、だからといって彼がルークのことを心配していないわけではないことは、屋敷の誰もが理解していた。
ガイはアッシュの沈黙をどう捕らえるべきか、判断がつきかねていた。
アッシュの気鬱な様子から、自分がいない間に彼とルークのあいだでなにかがあったのだろうと推測することはできた。しかしそれが即ルークの失踪に繋がるかというと、色々と無理があることはガイにも分かっていた。
ただひとつだけ、おそらくこの屋敷ではガイとアッシュだけがひそかに恐れている可能性がひとつあった。
ガイはあの戦いの中で、レプリカの死を何度も目の当たりにしたことがある。
はじめて見たのは、イオンが死んだときだった。
淡く輝いた後、なに一つ残さず消えたレプリカイオン。
そして、レムの塔で死んでいった一万のレプリカたち。
レプリカは、死を迎えると消える運命にある。関わった人たちの心に、記憶だけを残して。
もしルークが誰にも気付かれずに死を迎えたのなら、いきなり失踪したと思われてもなんの不思議もない。だが、その可能性を認めたくないから、アッシュは沈黙を守っているのではないだろうか。
そう考えれば、アッシュの不可解な反応にも説明がつく。
ガイはため息をつくと、アッシュのいる離れへと目を向けた。
本当は、なにがあったのか今すぐにでも聞きたかった。だけど聞いてしまったら、たぶん自分はアッシュを許せないだろう。そんな予感があった。
「ルーク。おまえ、どこにいっちまったんだよ……」
戻ってきたのは、奇跡だと言われていた。
ガイ自身、ルークが戻ることを信じていたけれど、本当は心の隅でもしかしたらと思わなくもなかった。
だから戻ってきてくれたときは本当に嬉しくて、どんな彼でも戻ってきてくれたのならかまわないと思っていた。
だけど、奇蹟はやはり奇蹟でしかなかったのだろうか。だとしたら、神と呼ばれる存在はどこまで残酷なのだろう。
それでも、自分には奇蹟を願うことしか許されないことをガイは知っていた。
***
ふと、待ち望んでいた笑い声が聞こえたような気がして、アッシュはひろげて眺めていただけの本から急いで視線をあげた。
しかし彼の目に映ったのは、あの日から何一つ変わっていない虚ろな鳥籠のような部屋の壁だけだった。
それに、いまはもう宵の口をとっくにすぎた時間だ。こんな時間にあの子供が起きているはずがない。
アッシュは手元の本のページをパラパラと適当に捲ると、突然興味をなくしたように無造作に本を閉じて机の上に放り出した。
しんと静まりかえった部屋の中は、まるでそこだけが別世界へと切り取られたかのように酷くよそよそしい。ルークと二人でこの部屋にいるときはそんなことを思ったことは一度もなかったのに、アッシュはいま自分がこの部屋にも拒まれているような気がしていた。
あの嵐の夜。明け方頃に散々陵辱しつくしたルークの体を湯に入れて清め、腕に抱いて眠ったところまでは記憶は確かだった。
だが目覚めたときには、ルークはアッシュの腕の中からだけではなく、屋敷のどこにもいなかった。
その時に一番強くアッシュの心の中を支配した感情は、罪悪感でもなく後悔でもなく強い喪失感だった。
失ってしまったのだ、自分は。ただひとつの大切な物を。
そのきっかけを作ったのは自分であり、そして壊したのも自分。
本当は荒れ狂い、泣き叫びたかった。
だが深淵よりも深い喪失感が、それを許してくれなかった。
あの時、つよく拒絶されたことがアッシュの心を打ち砕いた。夢でかいま見たルークの記憶。それによって彼が『以前のルーク』の記憶を取り戻すのが怖かった。
思い出して元に戻ってしまえば、いまここにいるルークは失われてしまう。ただひたすら、無邪気に自分へ信頼と愛情を向けてくるこの存在が消えてしまう。それが耐え難かった。
だから手を伸ばしてつかみ取った。そして手折ったのだ、自分だけの物にしたくて。
思うがままに蹂躙し、支配して、自分の中にあった強い独占欲を満たすことを一番に望んだ。それがこの結果だ。
自分が行ったあの行為が、ルークの体だけでなく心まで深く傷つけたことをアッシュは知っている。
ルークが完全に意識を失うそのすこし前から、ルークの瞳は完全に表情を無くしてしまっていた。ただひたすら涙を流すだけのものになってしまったガラス玉には、アッシュの姿は映っていたがルークの心の瞳にはおそらくもうアッシュの姿は映っていなかっただろう。
意識を失った青ざめた顔は痛々しいほどに泣き腫らした跡が残が残っており、体にも情事の跡が色濃く残っていた。抱きあげた体は怖くなるほど軽く、アッシュは浴室に運び体を清めいてるあいだにも、何度もルークの呼吸と鼓動を確かめた。
目覚めたルークがどんな反応を示すか怖かったが、どうしても離しがたくて腕に抱いて眠った。
だけど目覚めたときには、ルークはそこにいなかった。
核となる意思が形成されていないルークが、単独で屋敷を抜け出すことはまず考えられない。だとすれば、一番可能性が高いのはルーク自身が失われたことだ。
レプリカは死んでも死体が残らない。なんの形跡ものこさず、そのすべてが無に還るのだ。
だが、どうしてもアッシュはそれを認めることが出来なかった。
だから口を閉ざした。
ルークが消えてしまったという事実すら、いまのアッシュはまだ受け入れることが出来ずにいた。
アッシュはため息を漏らしながら前髪を掻きあげると、置き時計に目をやった。そして時間を確かめると、部屋の明かりを落としてソファへと足をむけた。
あの日から、アッシュはベッドでは眠っていない。ルークの匂いが残るあのベッドで眠るのは、今のアッシュにとっては拷問に等しい。あの嵐の夜のことをまざまざと思い出すだけではなく、ルークを抱きしめて眠っている錯覚に陥りそうになるのだ。
でも本当は、横になってもあの日からアッシュはほとんど毎日眠れずにいた。
ソファに横になるのは、心配する家人たちに眠っていないことを偽るため。実際には、暗闇の中でいくら横になっても、ここ数日のあいだアッシュに眠りが訪れることはなかった。
また今日も眠れずに夜を過ごすことになるのだろう。そう覚悟してソファに身を横たえようとしたアッシュは、突然襲ってきた眠気に強い目眩を感じて、ソファの上に崩れ落ちた。
さすがに限界が来たのだろうか。だがそれにしてもあまりに強すぎる眠気に、不安がよぎる。
しかし結局は逆らいきれずそのままソファの上に突っ伏すと、アッシュは眠りの中に落ちていった。
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