自鳴琴・18




 そして短い眠りの中で、アッシュは夢を見た。
 夢の中で、誰かが歌っていた。
 それは歌詞のない、単なる音の連なりだけの謡だったが、妙に心に響く歌声だった。
 音律士が謡う譜歌とも違うのに、その謡には心を揺るがせるようなそんな響きがあった。
 アッシュはその歌声をぼんやりと聞きながら、ふわふわとやわらかな場所を歩いていた。
 一体、この謡はどこから聞こえるのだろう。
 そんなことをぼんやりと思っていると、不意に何かがめくり上げられるような感覚がして景色が変わった。
 そこは、暗い闇の中のようだった。
 アッシュは軽く瞬きをして辺りを見回すと、ふとこの場にかすかに水の匂いがすることに気が付いた。
 水の匂いに気が付いた途端、ここが暗い水の中なのだと気が付く。
 一歩足を踏み出すと、足の下にいくつもの波紋が生まれる。
 白い糸のように輝く波紋は、アッシュが足を踏み出すたびに暗い水面にひろがってゆく。そして幾十幾百の波紋を踏み越えるようにして進んだその先に、淡い光を放つ場所があることにアッシュは気が付いた。
 歌声は、そこから聞こえてきていた。
 そう言えば、以前にもこうやって歌声の導くままに歩いたことがあったような気がする。
 そんなことをぼんやりと考えながらその光に向かって歩いていたアッシュは、そこに探し求めていた朱色を見つけて、思わず一瞬足をとめた。
『レプリカ……?』
 ルークは光の中に座ったまま、謡を歌っていた。
 先程から聞こえていたこの謡がルークの歌っている謡なのだと気が付いた途端、アッシュは思わず光に向かって駆け出していた。
 アッシュが走る側から、暗い水の面に無数の波紋が広がってゆく。
 それなのに、いくら走ってもその光の中にたどり着くことが出来ない。
『ルークっ!』
 名を叫んでも聞こえないのか、光の中で歌い続けるルークはふり返らない。ただひとつの謡だけが、あたりに響き渡る。
『応えろ、ルーク!!』
 ありったけの想いを込めて叫べば、不意に謡がとぎれた。
 そして、ゆっくりとした動作でルークがこちらをふり返る。
 だがルークの顔が完全にこちらを向く前に、どこからか吹き込んできた風がルークを取り巻く白い光を吹き飛ばした。
 白い光はいくつもの小さな光の粒となって、暗い水面に散った。
 呆然としながら水面に膝をついたアッシュの元にも、その白い破片が流れてくる。
 虚ろに開かれたアッシュの目がそれを捕らえ、光を取り戻す。
 その白い光の破片は、五枚の花びらを持つ小さな花の形をしていた。

***


 目覚めは唐突だった。
 眠りの余韻の全くない目覚めに戸惑いながらも、アッシュはソファにうつぶせに倒れていた体を起こした。
 あれは、夢だったのだろうか。
 確かに非現実的な光景ではあったけれど、アッシュはなんとなくあれがただの夢だとは思えないでいた。
 もしかしたら、あまりに思い詰めすぎて自分は気が狂いかけているのかもしれない。
 アッシュは自嘲するように口の端を歪めると、立ちあがろうとしてそのまま動きを止めた。
 部屋の中にいたはずなのに、ブーツが濡れている。
 そして、そのつま先に張り付いた小さな白い花。
 その瞬間、世界が揺らいだような気がした。
 震える指でつまみ上げた白い花は、つい今し方まで露に濡れていたとでも言うように、白く光っている。
 行かなければならない。
 もちろん、どこへと問う必要はなかった。
 白い花の導きが示すのは、ただひとつ。
 セレニアの花開く約束の地。──タタル渓谷だった。



 遅い月が登りはじめる頃。
 アッシュはひそかに屋敷を抜け出すと、その足で港へと向かった。
 真夜中の港には人影はなく、停泊している船たちも明かりを落として眠っている。アッシュはそれらをすべて通り過ぎると、港の一番はずれに停泊している小さな船へ足を向けた。
 その船は船というにはいささか奇妙な形をしていたが、その船影をアッシュ一度は懐かしそうに見つめると、声をあげた。
「ギンジ! いるんだろう!」
 その声に応えるように、すぐに明かりが灯る。
 そして、船でいえば船体の横腹にあたる一部が上に開き、そこから人影がのぞいた。
「……アッシュさん!?」
 信じられないものを見たような声をあげるギンジにかまわず、アッシュは浮き橋を渡ってアルビオールのハッチまでたどりつくと、目を丸くしているギンジの横をすり抜けるようにしてアルビオールの中に入った。
「どうしたんですか、急に。たしか、お屋敷から出られないんじゃなかったんじゃ……」
「くだらねえ事はどうでもいい。出られるか?」
「ええまあ、大丈夫ですけれど……」
 まだ驚きがさめないのか、ギンジは戸惑うような口調で答えながら怪訝そうな目を向けてきた。
「詳しい話は後だ。タタル渓谷に向かいたい。今すぐにだ」
「ええっ? これからですか?」
 ギンジは大きく目を瞬かせると、まじまじとアッシュの顔を覗きこんだ。
「また、なんで……」
「いいからさっさとしろ。行くのか? 行かないのか?」
 相変わらず今ひとつ反応の鈍いギンジに焦れて、つい声がきつくなる。これではまるで脅しているようだが、どちらにしろもし嫌だと言ったら、実力行使も辞さない覚悟ではいた。
 ギンジは、自分を睨みつけてくるアッシュを他所に、すこし考えこむように口元に手をやりながら首を傾げてから、小さく頷いた。
「わかりました。タタル渓谷ですね」
「ああ……」
 その答えにほっと肩の力を抜いて息をついたアッシュに、ギンジはようやくいつもの人の良さそうな笑みを浮かべた。
「じゃ、さっさと席についてください。どうせ急ぐんでしょう?」
「……悪い」
「何を言っているんですか、今更でしょう」
 ギンジは朗らかな笑い声をあげると、ハッチを閉めて操縦席へすべりこんだ。
「アッシュさんが無茶な飛行を言い出すのは、いつもの事じゃないですか」
「てめえ……」
「だって本当のことでしょう? ま、それに頷いちまうおいらもおいらですけどね」
 おっとりとした口調で話しながらも、ギンジの手は滑らかに計器の上を滑り次々と複雑なスイッチや計器を動かしてゆく。
「ほら、さっさとベルトを締めてください。超特急で飛びますよっ!」
 エンジンのかかる音ともに、操縦桿が引かれる。水面を走る水音がすこしのあいだ響き、そしてあいかわらず呆れるほど短い助走で機体が空に浮かび上がる。
「ちょっと我慢してくださいね!」
 その声とともに激しく機体が後に傾き、ほとんど垂直になった機体が急上昇する。
「ギンジっ!」
「だって急ぐんでしょ? これくらいは我慢してくださいね」
 楽しげな笑い声とともに、上昇速度があがる。
 忘れていた。そう言えばこいつは、空の上では別人なのだった。
 ほとんどアクロバットすれすれの飛行も物ともしない、敏腕パイロット。その腕には数え切れないほど助けられたが、調子に乗ったときのギンジの飛行は、常人には刺激が強すぎる。
「いやっほ──っい!」
「この馬鹿っ! 普通に操縦しろ!」
 最後にぐるんと縦に飛びながら一回転すると、ギンジは機体を水平に戻した。それにアッシュはほっとため息をつきながら座り直すと、隣で鼻歌を歌い出したギンジを睨みつけた。
「あっ! そうそう、言い忘れてました」
 アッシュの視線を感じていないわけではないだろうに、それは綺麗に無視したまま、いま思い出したとでもいうようにギンジはアッシュの方をふり返った。
「おかえりなさい、アッシュさん」
 かつてと同じような、あたりまえの口調でそう言うと、ギンジはにこりと嬉しそうに笑った。
 笑うと年上のくせに妙に童顔じみた顔になるところも、変わっていない。
 そういえば、彼の妹の時も同じようなことを言われたような気がする。だが、あの時は特になにか感じるものがあったわけではなかったけれど、今は違う。
「ああ……」
 その言葉に頷き返しながら、アッシュはようやく自分は還ってきたのだと素直に思えた。
 




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