自鳴琴・19




 ギンジの言葉通り、タタル渓谷にはありえない速さでたどり着いた。
 結局空の上でも詳しいことは何ひとつ話せず、ギンジは何か聞きたそうな顔はしていたが、強く引きとめるようなこともせず笑って送りだしてくれた。
 おそらく自分が家を飛び出してきたことも、彼にはわかっていただろう。
 そういえばあの旅の頃も、ギンジは聞くべきことは聞いてきたが、こちらが言いたくないことは、必要がなければ詮索してくることがなかった。いま思うと、そんな彼の性質に、どれほど助けられていたかわからない。
 アッシュは一瞬だけ表情を緩めると、またすぐにもとのきつい表情へと戻った。
 月は、あと少しで中天にさしかかろうとしている。
 そうえいば、あの夜もこんな月がのぼっていた。
 月に照らされた渓谷は、黒々とした草が海のように波打ち、水の匂いが風に運ばれてくる。
 この先に、ルークがいる。
 その予感は、実際にここに立ってみてさらに強くなった。
 アッシュはだんだん早くなって行く自分の足を緩めることなく、先へと進んだ。
 夜の渓谷には魔物が多く集まってくるが、ここらあたりに出る魔物はすでにアッシュにとって敵ではなかった。
 魔物たちも、そのあたりは敏感に察しているのだろう。ほとんど魔物に襲われることもなくアッシュは目的地までたどり着くと、そこに見えた光景に思わず足をとめた。
 黒く波打つ草の海のむこうに、白く光る群生が見える。
 夜に開く、セレニアの花だ。
 そしてその群生の真ん中に、白い人影が立ってこちらを見ている。
 見慣れた白い衣装に、月明かりに浮かびあがる朱赤の髪。
 その姿を認めた途端、アッシュは駆け出していた。
 足に絡まる長い草がもどかしく、舌打ちしながらも懸命に駆ける。一秒でも早く、そこにたどり着きたかった。
「レプリカっ!」
 だが、顔が見える距離までアッシュが近づいても、ルークはなんの反応も示さない。
 それがアッシュの不安を煽ったが、アッシュは意を決してルークの方へ手を伸ばした。
 ところが、予想に反してルークはアッシュの腕を拒まなかった。大人しくアッシュの腕の中におさまり、抱きしめてもされるがままになっている。
 それこそ悲鳴をあげて拒まれても不思議はないと思っていただけに、アッシュの戸惑いは大きかった。
 さすがに訝しく思いながら、アッシュはルークの顔をあらためて覗きこんだ。そして、そこに表情らしきものがまったく見えないことに気が付いて、大きく目を瞠った。
「レプリカ……?」
 そっと肩を揺すってみるが、返事は返らない。
 澄んだ輝きを放っていた新緑の瞳はその輝きを失い、ただのガラス玉のような曇った光を放っているだけ。
 アッシュは思わずルークを強くかき抱くと、瞑目して天を仰いだ。
 すると、突然腕の中にいるルークから声が上がった。
「よく来たな。私の半身よ……」
 アッシュはぎょっとして、自分の腕の中にいるルークを見下ろした。
 その抑揚の少ない声はたしかにルークの声だったが、それを発したのはルーク自身ではないことはすぐにわかった。
 そして、アッシュに向かって私の半身と呼びかける存在。
「ローレライ…か……?」
「いかにも……」
 アッシュはルークを抱きしめていた腕を緩めると、先程とは違う冷たい光を宿したルークの瞳に、おそるおそる視線を合わせた。
「なぜ、貴様がここにいる……? ルークはどうしたんだ!?」
「……もうひとりの私の半身は、今はここにはいない」
 ルークであってそうでない存在は、そっと自分の胸に手を当てながらそう答えた。
「じゃあ、どこにいるんだ?」
「私の中と、お前の中に……」
「俺の、中……?」
 呆然とした口調で呟くアッシュに、ローレライは静かに頷いた。
「どういうことだ?」
「……本当は、私はこの件に干渉する予定はなかった。なれど、これではあまりにもこの者が救われない」
 ローレライはそっと目を伏せると、胸に当てた手を小さく握りしめた。
「答えろ、ローレライ!」
「人である私の半身よ。そなたはすべてを知りたいか?」
 いきり立つアッシュの問いには答えず、ローレライは静かにアッシュに問いかける。
「すべてとは、なんのことだ?」
「契約のすべてを」
 その言葉に、アッシュは思わず目を見開いた。
「契約とは、なんだ……?」
「私とルークのあいだに交わされた、契約だ」
 ローレライとの契約。
 アッシュは確信した。この一連の出来事は、すべてそこからはじまっているのだと。
 だから迷わず頷いた。
「聞かせてもらおうか」



 アッシュが頷いた途端、辺りの景色は一変した。
 白い花の咲き乱れる夜の渓谷から、上下のわからない白い光に満ちた世界に放り込まれて、アッシュは一瞬平衡感覚を失ったような錯覚を覚えた。
「案ずるな。幻だ。私が説明するよりも、おまえには見た方が早いだろう?」
 暗に口で説明しても納得するまいと言われているような気がしたが、その指摘は正鵠を得ていたのでアッシュはそのまま押し黙った。
 やがて白い光がやわらぎ、あたりの様子が見えてくる。
 最初に見えたのは、二つの赤だった。座ったまま何かに祈るように目を閉じているルークと、彼に抱きかかえられている青ざめた自分の体。自分で自分の死体を見ることがあるとはおもわなかったので、なんとも奇妙な気分だった。
 だがそうやって二人を見ているうちに、アッシュはルークの輪郭がちらちらとノイズが混じったように時々薄くなっていることに気が付いた。
(そなたは、何を望む──)
 不意に、その場に厳かな声が響いた。
 この声を、アッシュは何度か聞いたことがあった。もっともいつも頭の中に直接呼びかけられるので、耳で聞いたのは初めてだったが、それが誰の声なのかはすぐにわかった。
(我を解放した、我と存在を同じくする者よ。我からの贈り物として、そなたが望む契約を交わそう。何を望む──?)
 呆然と空を見つめていたルークは、不意に現れたオレンジ色の炎に驚いたように何度か瞬くと、アッシュの体をぎゅっと抱きしめなおすのが見えた。
(──生きたい。アッシュと一緒に生きて、みんなの所に戻りたい。約束を、守らなくちゃいけないから)
 約束。その一言が、重くのしかかってくる。
 あのエルドランドの仕掛け部屋で、ルークと交わした約束。共に戻るという約束。
 あれは、かなえられないと知っていたのに交わした約束だった。そしてあの時、ルークもまたそう知っていて口にした約束だったと、いまはアッシュも知っている。
 だからこそあの約束を守りたい。そう願っていることが、痛いほど良くわかった。
(いいだろう。そなたの願いをかなえよう。だが、ひとつ問題がある──)
(問題?)
(そうだ)
 ゆらりと、オレンジ色の光が揺れる。
(アッシュを完全に生き返らせるには、大爆発現象を完了させなければならない。この私にも、自然の摂理を完全に曲げることは出来ないからな……)
(……つまりそれは、アッシュを生き返らせたいなら俺は消えなくちゃいけないってことか)
 寂しげな笑みがルークの顔に浮かぶのを見て、アッシュは胸を強く締め付けられるような気がした。
(たしかにいまここにいるルークという存在は、一度消える。しかし私なら、契約によってそなたの体を新たに再構築することが可能だ。そしてオリジナルへ渡ってしまった記憶を取り戻し、新たな体へとコンタミネーションさせる。本来なら、それで話が終わるのだがな……)
 ローレライはため息を漏らすように炎を揺らすと、続けた。
(二つに分かたれたときにそれぞれに宿っていたはずの命が、そなたたちにはなぜか一人分しか残されていない)
(……どういうことだ?)
(平たく言えば、二つの体にひとつ分の生命エネルギーしか残されていないと言うことだ。おそらくこのまま大爆発を起こせば、それはアッシュへと引き継がれる。そうなれば、そなたはそう長くは生きながらえられない。新たに、レプリカを作り直せば別だがな……)
(……もう一度、レプリカを?)
 驚きに見開かれた瞳が、困惑の色を深める。
 いったい何を迷っているのだろう。アッシュは思い詰めたような顔で何かを考えこんでいるルークの顔を見つめながら、眉をひそめた。
(それは、ダメだ……)
 少しして、ルークはきっぱりと首を横に振った。
「てめえっ! 何を言ってやがる!」
 聞こえていないのはわかっているが、思わず声をあげずにはいられなかった。生きるための方法をしめされているのに、どうしてそこでそれを拒むのか。アッシュにはわからなかった。
(なぜだ? 生きたいと願っているのだろう?)
(もちろん死にたくなんかない。だけど、それじゃあダメなんだ)
 ルークはそっとアッシュの髪を撫でると、もう一度首を横に振った。
(俺はもう、アッシュから何も奪いたくない。それに、アッシュの知らないところで勝手にもう一度レプリカ情報を抜き出すなんて、そんなことが許されるはずがない。だからそれは、できない)
 あまりに真摯なその言葉。
 それが嘘偽りのないルークの本心なのだと、嫌でもわかってしまう。
 もう何も奪いたくないとくり返し言い続けていたルークを、アッシュは卑屈で偽善的な心がそう言わせているのだと思っていた。
 だけどそれは、ルークの本心だった。
 あまりにも不器用でまっすぐな、固くて透明な心。
(だが、そのままではそなたは死ぬことになる)
(ま、仕方ねえよな……。元もと無理な願いだったんだから)
 ぎこちなく笑うルークの笑顔が、痛かった。
 本当は誰よりも死にたくないと願っていた、ルーク。
 生きたいと思いはじめてからのルークの成長ぶりには、たしかに目を瞠るものがあった。
 それなのに、ルークは自分が生きることを諦めると笑うのだ。
(──だが、それではそなたの望みをかなえたことにはならない)
 ローレライの声に、困惑の色が混じる。
(いいんだよ、本当にもう。正確に言えば約束は守れないかもしれないけれど、アッシュの中に俺の命が取り込まれるのなら、それで約束は守れたってことになるのかもしれないし)
(だが……)
(いいんだ、それで。ひとつしかないなら、俺はいらない。それに、俺の命はアッシュから分かれて生まれたんだから、それはアッシュの物だ)
 ルークはそう言い切ると、自分の腕の中にいるアッシュの体をもう一度抱きしめた。
 その姿に、アッシュはどんな顔をすればいいのかわからなかった。
 ただひたすら自分が情けなく、そして狭量に思えた。
 もうすでにあの頃から、ルークは自分へなんの代償も求めない好意をむけてくれていたのだ。
 それにアッシュが気が付かなかったのは、自分と自分の求める目的しか見ていなかったからだ。
 いつからルークは、自分のことだけでなく本当の意味で人のことを思って、まわりを見られるようになっていたのだろう。子供っぽい我が儘な一面ばかりが目について仕方がなかったのに、いつの間に自分を追い越していっていたのだろうか。
 それなのに自分はそんなことにも気付かず、ただひたすら自分の傷跡を埋めることに必死だった。そして無心に慕いよってくるルークを愛しく思いながら、今この瞬間にいる彼を離したくないと執着した。
 どれもこれも、自分が傷つきたくなかったからだ。
 いつの間にか持っていたはずの誇りも忘れ、ただ安逸な弱い心へと逃げようとしていた。
 そんな自分が、たまらなく恥ずかしい存在のように思えた。
 目眩のように襲ってくる羞恥と後悔の中で、淡々と目の前のすでにあった光景は進んでゆく。
 アッシュはひとつ息を吐くと、目の前のやり取りに注目した。
 これは、きっと最後まで見なくてはならない過去の光景なのだ。
(そなたがそう望むのなら、仕方がない。だが、ひとつだけ可能性を与えよう)
(可能性?)
(そなたに、期限付きで時間を与える)
 輝きを増した光がゆらりと大きく揺れるた。
(大爆発現象を終えても、しばらくはそなたが消えないように私が命を繋ぐ)
(じゃあ、どちらにしても一度戻れるんだな?)
 ルークはパッと顔を輝かせると、嬉しそうに笑った。
(だが、この方法には欠点がある)
(欠点?)
(そうだ……)
 ローレライは頷くようにゆらりと炎を揺らす。
(おそらく、ここまで極端に生命エネルギーが足りなくなっている状態では、記憶を司る音素を取り戻すことはかなわないだろう。つまりあちらに戻っても、そなたには記憶もなければ自我もない。それでもかまわないか?)
(記憶が、なくなる?)
(そうだ……。だが、そうだな。私の力でたったひとつだけなら、記憶を引きとめることが出来る)
(ひとつだけ……)
(そう。ひとつだけなら、与えた期限のあいだだけ私の力でそなたの中に記憶を引きとめることが出来る。だがそれ以上は無理だ)
 それは、あまりに非情な条件だった。
 だがルークはそれほど長く考えることもなく、その条件に頷いた。
(では、契約を……)
 ローレライの宣言を受けて、ルークのまわりに魔法陣があらわれる。ルークは目の前に突き立つローレライの鍵へ手を伸ばすと、その柄を掴んだ。
 ルークが鍵を掴んだ瞬間、辺り一面を覆い尽くす白い光が放たれた。その眩しい光に思わずアッシュは目を背けながら、きつく唇を噛みしめた。
 馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿だったとは思ってもみなかった。
 どうして、すべてを自分で背負い込もうとするのだろうか。
 白いその光はさらに大きくひろがり、アッシュだけでなく辺り一面を覆い尽くしてゆく。
 そして、次にアッシュが目を開いたときは、そこは元の夜の草原へと戻っていた。




BACK← →NEXT (08/07/10)