自鳴琴・4




 ベルケンドへ飛ぶアルビオールの中でも、ルークはアッシュから片時も離れようとしなかった。
 それをただ眺めるしかないジェイドたちの心中も相当複雑だっただろうが、それ以上にアッシュは複雑な気持ちを感じていた。
 アッシュ以外の誰かが近づくとルークが怯えるので、二人だけ他の者達からは離れて後方の座席に座っているのだが、それも落ち着かない原因の一つだった。
 このメンバーの中では、アッシュはあきらかに異分子である。
 以前も何度かやむを得ぬ事情で彼らと行動を共にしたこともあったが、その時も間違った場所にいるような違和感をいつでも覚えていた。
 彼らは所詮ルークの仲間であって、自分の側の人間ではない。
 一番親しみを感じているナタリアでさえ、彼らと一緒にいるときはあきらかにあちら側の人間だった。
 だがなぜか今、そんな彼らの中心にいたはずのルークがアッシュの傍にいる。
 それが違和感の理由だった。
 ちらりと自分の服の袖を掴んだまま隣に座っているルークに目をやると、アッシュは胸の中で小さくため息を漏らした。
 ルークはさっきジェイドたちに合流してからこちら、一言も話そうとしない。それだけではない。ルークはあきらかにかつての仲間達に対して、強い警戒心を持っていた。
 口をきかないのも、たぶんそのせいだろう。
 人見知りの強い子供が見知らぬ他人にそういう態度を取ることがあるが、それによく似ている。
 そんなルークの態度一つとっても、なにか異常なことが彼の身に起きているのだということはわかる。そのことについて、強い不安を感じないわけでもない。だがアッシュは、そんな自分の心の動きをまだ素直に認める気持ちにはならなかった。
 一度はルークがルークであることを認めたとはいえ、そう簡単に今までのわだかまりが消えるわけではない。
 自分が意固地な性格なのだという自覚もあるが、強い負の感情というものはそれが不要になったからといって、すぐに忘れられるような優しいものではないのだ。
 アッシュには、自分がこの場にいる誰よりもルークのことを心配していないという自信がある。それなのに、なぜルークはよりによって自分だけを慕ってくるのかわからなかった。
 そんな感情は、時々こちらを誰よりも複雑な視線で見つめている元使用人にでもくれてやればいいのに、どうして自分なのだろう。
(これも、同位体ゆえのものだというわけではないだろうに……)
 それとも、この空白の2年の間にあったことにそれも関わっているのだろうか。
 だがそれを問いただしたくても、今のルークではまともに説明一つ出来ないだろう。それだけではない。もしジェイドの勘が正しければ、ルークは精神的に退行して子供に戻っていることになる。
 それが一時的なものであればいいが、このままであれば事態は深刻だ。
 全くどこまでも手のかかるレプリカだ、とうんざりしてため息をつきたくなるが、アッシュはなんとかそれを堪えた。
 ルークは眠いのか、アッシュの腕を掴んだままうつらうつらと船をこぎ始めている。
 たたき起こしてやろうかと思わないでもないが、そんなことをしても今のルークが相手では、子供を苛めているような後味の悪さしかないことがわかっている。
 本当に厄介なことになったものだ。
 だが今は何よりも自分たち二人に何があったのかを、確かめる必要がある。
 すべては、それからだった。



 ベルケンドの第一研究所。
 そこはアッシュにとっては忌まわしい思い出しかない場所だったが、いまはそんな感傷に浸っている場合ではないこともわかっていた。
 しかしそこで検診という段になって、また新たな問題が一つ浮上した。
 別々に検診を受けるためにルークを引き離そうとしたのだが、彼が頑としてアッシュの腕を離そうとしなかったのだ。
 さすがに我慢の限界にきていたアッシュは強引にルークを自分から引きはがしたが、それでもルークはアッシュの傍から離れようとはせず、あげくにはその場にうずくまって泣き出した。
 結局最後は医師もアッシュも根負けして、彼は保護者よろしくルークと共に検査を受けるはめになったのだった。
 しかも、必死にアッシュの後をついてまわるルークの姿に、女性研究員などは微笑ましいとでも言いたげな視線を寄越す始末。検査が終わる頃には、アッシュは検査疲れだけではない疲れに機嫌が急降下していた。
「おや、ずいぶんとお疲れのようですね」
 着替えを終えて(ついでにルークも着替えさせて)診療室に戻ると、シュウ医師だけではなくジェイドが待ち受けていた。
「うるせえ……。とっとと、結論を言え」
「まあそう焦らずに。ほら、ルークが怯えていますよ」
 ジェイドは相変わらず底の見えない笑みを浮かべると、ルークの方へ視線を移して、今度は先ほどのうさんくさい笑みが嘘のような親しみのある笑みを浮かべた。
「少々話が長くなりますので、お二人とも座ってください」
 ジェイドは部屋の隅ある長椅子の方を、目線でしめした。
 二人が腰をおろしたのを確認すると、ジェイドはシュウ医師の方に顔を向けて小さく頷くと、一歩下がった。
 それを受けてシュウ医師は前に出ると、小さく咳払いを一つした。
「まずは、簡単な検査結果から申し上げます。アッシュさんもルークさんも、身体的にはこれといった異常は見受けられませんでした。健康体そのものです。もちろん軽い衰弱はありますが、たっぷり休養をとれば問題はないでしょう」
 シュウ医師はそう告げると、二人を交互に見て穏やかな笑みを浮かべた。
「……そうか」
 アッシュは詰めていた息を吐くと少し表情を緩めたが、すぐにまた元の表情に戻った。
「だが、俺の体は音素乖離が進んでいたはずだが……」
「そうでしたね。ですが、今は特に乖離の兆候は見られないようです。あなたも、ルークさんも」
「こいつも? どういうことだ?」
「ルークさんにも以前は音素乖離の兆候があったのです。ですが、どうやらそれもおさまっているようですね。信じがたいことですが」
「音素乖離……? こいつが?」
「そこからは、私が説明します」
 にわかには信じられないといった口調で思わず呟いたアッシュに、ジェイドの声がかかった。
「あなたは、大爆発をどういう現象だと思っていましたか?」
「俺の体が音素乖離して消えた後、俺の存在自体こいつに食われてなくなる。……そう聞いた」
「あなたは根本的なところで、勘違いをしていたのですよ……。確かにあなたの体は音素乖離して消える。だが存在を食われるのは被験者であるあなたではない。レプリカなのですよ」
「なんだとっ?」
「被験者がレプリカの体を乗っ取り、その存在を食い尽くして一つになる。それが完全同位体の間に起こる、コンタミネーション現象。私たちが大爆発と呼んでいるものです」
 穴が空くほど自分を見つめているアッシュの視線を平然とした顔で受け止めながら、ジェイドは淡々とした口調で簡単に大爆発現象の真実を語りはじめた。
「……つまり、俺ではなくてこいつが死ぬことになっていたということか」
 呻くように呟いたアッシュに、ええとジェイドは小さく頷いた。
「大爆発現象の第一段階で起こる、被験者の身体の衰弱と能力の低下。その現象だけを見れば消えるのは自分だと勘違いするのも、無理ありません。ですが実際は被験者から乖離した音素はすべてレプリカ側に流れこみ、受け入れる準備が整えられる。そして最終的には被験者がレプリカという存在を上書きして、その体を乗っ取る。それが、大爆発が導き出す結果です」
 ジェイドは呆然と自分を見つめているアッシュの目を見かえすと、そこで言葉を切った。
「こいつは、それを知っていたのか……?」
 少しして、深いため息とともにアッシュが呟いた。
「すべてを話したわけではありませんが、おそらく朧気にでも察してはいたでしょう。それにもし大爆発が起こらなくても、ルークの体はすでに取り返しがつかないほど乖離現象が進んでいました。ローレライ解放に耐えられるかどうかは、正直言って賭でした」
 初めて知る真実に、アッシュは隣できょとんと目を丸くしたまま自分を見つめているルークの方へ目を向けた。
 どうしてあれほどルークが自分にすべてを託そうとしたのか、今更ながらに理解できた気がした。
 初めの方はどうあれ、最後の方ではあれは別に卑屈な精神が言わせたのではなくて、ルークなりにそれが最良の方法だと判断したからこその言葉だったのだ。
 だが自分は、それを切り捨てた。
 消える運命にある自分の気も知らないで勝手な事を言う、と苛立ちさえ覚えていたのだ。
「ですから、あなた方二人がどちらも戻ってこれたのは奇跡に近いのですよ。ルークが言っていましたが、あなたは一度完全に死んだはずですね?」
「ああ……」
 その瞬間のことは、いやでも覚えている。しかし何らかの奇跡が起こったのだろう。そうでなければ、今ここに自分がいるはずがない。
「ルークも、あのまま音素乖離してしまっても不思議のない状態でした。ですがあなた方は二人とも生きている」
 ジェイドは手に持っていたデータの束を医師のデスクの上に置くと、あらためて二人の顔を交互に見た。
「大爆発の危険が今後も回避されているのかどうかはわかりませんが、とりあえず普通の生活をおくるのに何の問題もありません。よかったですね」
 ジェイドはそこでにこりと笑みを浮かべると、さてと言葉を続けた。
「当面の懸念はなくなったわけですから、明日にはバチカルに向かいます。いいですね?」
「おい、俺はまだ戻るとは……」
「いまさら我が儘を言うのはみっともないですよ。それに、あなたがバチカルに戻らなければルークはどうするつもりですか? まさか、こんな状態のルークを放り出して行くほど、あなたは情け知らずではないですよね?」
 思わず言葉に詰まったアッシュに、ジェイドがたたみかけるように言う。
「今のルークにとって、あなたはすべてです。それを捨ててゆくということは、見殺しにするということと同じ事だと思いますよ。それとも、まさかいまさらのこのこと公爵家に戻るのが恥ずかしいとか言いますか?」
「クソ眼鏡野郎……」
 今にも斬りかからんばかりの殺気のこもった視線を向ければ、嫌味なくらいに涼しげな顔で受け止められる。
「なにが正しいことなのか、聡明なあなたなら分かるはずですね?」
 言われなくとも、そんなことは分かっている。
 意地をはって一人で生きてゆくことも可能だろうが、それはどんな理由をつけたとしても逃げることと変わらない。
 自分がなすべきことから、そしてルークから……。
 無言のまま不機嫌そのものの顔で頷いたアッシュに、ジェイドは満足そうに小さく頷いた。
 そしてそっとルークに視線をずらすと、彼らに気がつかれない程度に微かに瞳を細めた。
 だがそれ以上、彼が口を開くことはなかった。



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