自鳴琴・5




 明日あらためてバチカルに向かう前に、少しでも休んでおいた方が良いだろうという提案に異存はなかった。だがジェイドから告げられた部屋割りに、アッシュは盛大に顔をしかめた。
「なんで俺がこいつと同じ部屋なんだ」
「なぜって……、今の状況を見れば一目瞭然だと思いますが」
 もう眠いのか、アッシュの服の裾を掴みながら船をこぎかけているルークを見て、ジェイドはちいさく首を傾げた。
 可愛らしい少女などがやれば微笑ましい仕草だが、男が、それも性格が恐ろしく悪いと分かっている成人男性がやると嫌がらせにしか見えない。もちろん、本人も分かってやっているのだろう。
「ガイの奴に世話をさせればいいだろう」
「でしたら三人部屋にしますか? どちらしにろ、あなたがいないとそこのお子様は盛大にぐずると思いますよ?」
 食事の時のようにねと付け加えたジェイドに、アッシュは小さく舌打ちした。
 研究所を出たあと、今のルークの姿をうかつに人目にさらすわけにもいかないため宿の一室を借りて食事を取ったのだが、予想通りルークは見事に食事の仕方も忘れていた。
 さすがにそんなことまで面倒を見てやれるかと突っぱねたアッシュの代わりに、その役を務めたのはガイだった。
 だが、やはり最初ルークはガイに対して怯えしか見せず、アッシュの影に隠れるようにしてそちらを向こうともしなかった。
 しかし、ガイの根気強さと空腹についに負けたのか、差しだされる匙にようやく口をつけたときのガイの満面の笑みは、見ている方が恥ずかしくなるほど甘いモノだった。
 さすがに生まれたばかりの頃のルークの世話をしていただけあって、その後は実に慣れたものだった。次々に口元に匙を運ぶガイに対して、ルークも雛鳥のように従順に口を開くようになった。
 しかしそれも、その様子を見てアッシュが席を立とうとするまでのことだった。
 アッシュが自分の側を離れようとしていることにいち早く気がついたルークは、いまにも泣き出しそうな顔で必死にアッシュにしがみついてきたのだ。
 結局ルークが食べ終えるまでアッシュは席を立つこともできず、その向かい側でガイは苦笑いしながらも、なんとか最後まで食べさせることに成功したのだった。
 その後はなんとかガイには少し警戒を解いたようだったが、やはりルークはアッシュから離れようとしない。
 今もしっかりとアッシュの服を掴んでいるところを見ると、引き離すのはまず無理だろう。
「諦めなさい」
 低く唸るアッシュに、ジェイドはにこりと胡散臭い笑みを浮かべた。
「今のルークにとって、この世界で信じられるのはあなたただ一人です。見知らぬ世界に放り出された子供が、ただ一人信じられる人間から離れようとしないのは、当たり前のことだと思いませんか?」
 ジェイドはそう言うと、眠そうに目を擦っているルークの方を見て軽く眼を細めた。気のせいだろうか、その目にはどこか寂しげな色が見え隠れしているようにアッシュには見えた。
「明日は、昼前に出ましょう。この様子だと、朝には起きそうにないですからね」
「叩き起こせばいいだろう」
「賭けてもいいですね、絶対に起きませんよ」
 くすりとジェイドは楽しげに笑うと、それでは頼みましたよと重ねて言い置くと部屋へ引き上げていった。
 後にルークと残されたアッシュは、ため息とともに乱暴に髪を掻き上げると、今にも立ったまま眠り出しそうなルークをせっつきながら割り当てられた部屋へとむかった。



 部屋には二つのベッドがあり、アッシュは船をこいでいるルークを手前のベッドの上に転がすと、自分ももう一つのベッドに腰をおろした。
 自覚していなかったがやはり疲れていたのか、こうやって落ち着いてみると体が鉛のように重く感じられる。
 軽くシャワーでも浴びてから眠るかと考えてから、すぐに諦める。もし浴室を使っている途中でルークが目覚めれば、また騒ぎになるだろうことは明らかだ。
 まったく、なんでこんな目にあわなければならないのだろう。
 そう思いながらも、自分がこんな状態のルークを見捨てられないこともわかっている。
 もちろん過去にあった憎しみや確執が、綺麗になくなったわけではない。だがそれが今となってはひどく虚しいものであったことを、アッシュは知っている。
 しかし、それでもやはりまだルークに対する蟠りはアッシュの中に存在していて、自分の感情をどこに置けばいいのかアッシュ自身にもまだ分かっていない。
 それなのに、ルークはまっすぐアッシュだけに懐いてくる。
 だからこそ余計に、混乱するのだ。
「アッシュ……」
 ふと気がつくと、眠そうな顔をしたルークがいつの間にかこちらのベッドにやってきていた。ぎょっとして身をひこうとすると、それを追うようにベッドに乗り上げてアッシュにくっついてこようとする。
「お前のベッドは向こうだ。さっさと寝ろ!」
「やだ……一緒」
 聞き分けのない幼い子供のような頑固さで抱きついてくるルークを振り払おうとするが、そうすればするほど離されまいと必死に抱きついてくる。
「てめえっ、いいかげんにしろっ!」
 さすがに一日中つきまとわれて我慢の限界にきていたアッシュは、思わず容赦のない力でルークの体を突き放した。
 押された勢いでそのままベッドの下に落とされたルークは、一瞬ぽかんとした顔でアッシュを見上げてから、まずいと思った次の瞬間には思い切り顔を歪めていた。
「泣くなっ!」
 ここで盛大に泣かれでもしたら、ただでさえルークに拒絶されてこちらに何か思うところがあるらしいガイやジェイドに、何を言われるかわかったものではない。
 慌ててルークの口を手で塞ぐと、突然のことにびっくりしたのかルークは涙を溜めた瞳をきょとんと大きく瞠った。
 どうやら泣き出さないようだと判断すると、アッシュは口を塞いでいた手を離した。ルークは大きく見開いた瞳を何度か瞬かせると、床にぺたりと腰を落としたままアッシュの腕を両手で掴んできた。
「やだ……」
 たった一言なのに、その声の響きがまるで迷子の子供のような強い不安感を伝えてくる。
「こわい……」
 さらに手を伸ばしてぎゅうっとアッシュの腰のあたりにしがみつくと、ルークは静かにしゃくり上げはじめた。
(今のルークにとって、この世界で信じられるのはあなたただ一人です)
 ふと先ほどのジェイドの言葉が頭の隅をよぎり、アッシュは自分の膝に顔を埋めるようにして泣いているルークの頭を見下ろした。
 たしかにルークが怯えるのも、分からないではない。
 目覚めてみれば記憶がなく世界は見知らぬ場所で、出会う人々も記憶からこぼれ落ちてしまっているのに、まるで自分を知っていて当然のように接してくる。
 しかも、ようやくたった一人認識できた相手は、全然自分に優しくしてくれない。
 それでもルークに分かるのはそのたった一人なので、必死に縋ろうとする。意識も退行してしまって幼子に戻っているのなら、突き放されまいと必死に追いかけてしがみついてくるのも仕方がないことなのかも知れない。
「……ったく」
 アッシュは小さく舌打ちすると、自分の腰に抱きついているルークの腕を引っ張ってベッドの上に引き上げた。
 ころりとベッドの上に転がされ、ルークはきょとんと目を丸くした。そんな彼を抱き込むようにしてアッシュもベッドに横になると、さっきまで泣いていたくせに、満面に笑みを浮かべながらルークが抱きついてくる。
「馬鹿っ、少し離れろ!」
 ぎゅうぎゅうときつく抱きついてくるルークの腕をなんとか緩めさせようとするが、よほど嬉しいのか浮かれ状態になったルークはますます強くしがみついてくる。
 結局最後には諦めてしたいようにさせておくと、ようやく安心したのかもそもそと動いて自分の位置を決めると、目を閉じた。
 よほど眠かったのか、すぐに聞こえてきたやわらかな寝息に半ば呆れながらその顔を覗き込むと、自分とおなじ顔のはずなのになぜかずっとあどけなく見える顔がそこにあった。
 どうして自分なのだろう。
 ぼんやりとその顔を見つめながら、アッシュは今日何度となくくり返した疑問をもう一度くり返す。
 どうしてよりによって彼は、アッシュのことだけを追いかけてくるのだろう。自分よりもずっとルークのことを大切に思っている相手がいるはずなのに……。
 安心しきった、幸せそうな寝顔。
 その顔を眺めているうちに、なぜか叫びだしたいようなざわめいた気持ちがこみ上げてくる。
 だがそれがどこからやってくる感情なのか、アッシュにはわからなかった。


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