自鳴琴・6




 バチカルの街をのぞむ大橋の前に立つと、アッシュは懐かしい故郷を眼を細めて見上げた。
 死を覚悟して突入したエルドランドの決戦の前日。やはりこうやってこっそりこの街を見上げたことを、ふと思い出す。
 あの時はもっと遠くからだったが、その時はまたこうやってこの街に戻ってくることがあるとは思っても見なかったので、じっと網膜に焼き付けるかのように必死に見上げたのだった。
 本当は戻るつもりがなかったと口では言いながらも、いざこうやって街の入口に立てば懐かしさと嬉しさがこみ上げてくる。現金なものだと自分でも思わないでもないが、それでもこみ上げてくる懐かしさを誤魔化すことは出来ない。
「行きましょうか」
 そっと後ろから促してきたジェイドに、小さく頷く。
 いま一緒にいるのは、彼とガイとあとルークだけだ。女性たちは先に港の方からバチカルの街に入り、城と公爵家にあらためてアッシュとルークの帰還を知らせに行っている。
 死んだと思われていた二人が共に帰還したことだけでも十分騒ぎになると思われるのに、いまのルークの状態を知られればさらに騒ぎが大きくなるのは目に見えている。
 それに、無闇にルークを刺激したくないというジェイドの意見もあった。
 たしかに今のルークにとって、アッシュ以外の人間は全く見知らぬ他人でしかない。親密に付き合っていた旅の仲間達に対してさえあれだけ怯えていたのだから、いきなり見知らぬ他人ばかりの中に放り込まれて騒ぎ立てられたら、完全に恐慌状態に陥るのは想像に難くない。
 アッシュは先程から自分の腕にくっついているルークに目をやり、小さくため息を漏らした。
 今の二人は目立つ赤い髪を隠すために、目深にフードをかぶっている。この恰好をさせるのが、また一苦労だったのだ。
 完全に子供に戻ってしまっているルークには、いくら理詰めで説明をしたところで意味がない。結局はアッシュが同じ恰好をするのを見てようやく納得したらしく、いまは大人しくしている。しかし街中で大人しくできるかどうかの保証がないところが、アッシュの不安をかき立てる。
「大丈夫だと思いますよ」
 ふと、そんなアッシュの心を読んだようにジェイドが言う。
「あなたがその子の手を離さなければ、おそらく。ただ、用心のためにあまり人目につかない道を選ぶ必要はあると思いますが」
 なにげなく手をのばしかけて、怯えたようにルークに見上げられたジェイドは困ったような笑みを浮かべた。らしくもなく、昨日から何度も彼は同じようなことをくり返していて、その度にルークに拒絶されているのだ。
 今のところルークが自分から受け入れているのはやはりアッシュだけで、それ以外では、なんとか食事をさせることに成功したガイには少しだけ警戒を解いたらしい。
 それでも、アッシュが側にいなければルークは絶対にガイにも自分から近寄らない。その徹底ぶりは、いっそ呆れるほどだった。
「……そろそろ行きましょうか」
 ジェイドは笑みを消すと、先に立って歩きはじめた。ジェイドとガイが先を歩き、それから少し遅れてアッシュとルークが歩く。そうしないと、ルークが歩こうとしないからだ。
「ったく、厄介な……」
 きょとんと目を丸くして自分を見上げるルークに、行くぞと声をかけるとアッシュはルークの手を握って歩きはじめた。
「手……」
「迷子にでもなられたら面倒だからな」
 放すなよと言うと、ルークはこくこくと何度も大きく頷いてから、ほわりと日だまりのような満面の笑みを浮かべた。
 その笑みからアッシュは慌てて目をそらすと、乱暴にルークの手を引いた。 どうして、自分を見てそんなふうに笑うのだろうか。
 アッシュが知るルークは、そんなふうに笑わなかった。
 もっとも、時々しか会うことはなかったし、大抵は気まずい状態で会うことがほとんどだったので、笑った顔を見たことは数えるほどしかない。そのせいか、アッシュの記憶にあるルークの笑顔は、どこか少しだけ寂しげなところのあるものばかりだ。
 その笑みを見るたびにあの頃は苛立ちがつのったものだが、今はあまりにまっすぐなその笑みがまともに見られない。
 だがそれが何故なのかは、アッシュ自身にもわからなかった。



 人の多い街中でもしかしたら恐慌状態に陥るのではないかと危ぶまれていたルークだったが、予想に反してここまでやってくるあいだ、彼はずっとアッシュに手を引かれるままに大人しくしていた。
 時折怯えたように体をくっつけてくることもあったが、ジェイドが言っていたとおり、アッシュが手を握っている間は落ち着いているようだった。  人目を避けて最上層まであがると、アッシュたちはまっすぐ王城のすぐ近くにあるファブレ邸に向かった。
 表門を守っていた騎士団の一人が、こちらに気付いて慌てて中に駆け込んでゆくのが見える。それをフードの影から見つめながら、アッシュは自分の足取りが少しずつ重くなってゆくのを感じずにはいられなかった。
 本当は、戻るつもりはなかった。
 いや、もし戻るとしても、もう少しだけ自分を見つめ直してから戻りたかった。もちろん今ではそんな猶予があたえられるわけがないと、わかってはいるが。
 ふと、急に左の腕を強くひかれてアッシュは隣に目を向けた。振り向いた途端、ルークと視線が合う。問いかけるような緑の瞳には、不安の色が濃く滲んでいる。
 置いて行くなと言わんばかりのその眼差しに、複雑な気持ちがこみ上げてくる。
「どうしました?」
 二人の足が止まったことに気がついたジェイドが、こちらに戻ってくる。それになんでもないと首を横に振ると、アッシュはルークの手を強く握ったまま屋敷の門をくぐったのだった。



 大きく開かれた扉の向こうには、懐かしいエントランスホールがあった。
 磨き込まれた石床に赤い敷物が敷かれ、その左右にずらりとメイド達が恭しく頭を垂れて控える。
 ホールに入ってすぐ左手にある柱には、かつて美しい剣が飾られていた。だがその剣は、今は後ろにいるかつての使用人の屋敷に飾られているはずだ。
 そんなとりとめのないことを考えてしまうのは、きっと自分が緊張しているせいなのだろう。
 アッシュは赤い敷物が作る道をゆっくりと歩きながら、その先に立つ両親の姿を捕らえた。
 最初に感じたのは、老いたという印象だった。二人ともまだそれほどの年ではないはずなのだが、長い時間を過ごしてきた人間だけが持つ鈍色の空気を感じさせた。
 だが近づくにつれて、彼らの瞳に歓喜の色が浮かんでいることに気がつく。その途端、まるでその喜びが伝染したかのように自分の心が震えたのが、アッシュにもわかった。
 どんな理屈を捏ねようと、両親が自分の帰還を心から喜び受け入れてくれている様を見てしまえば、嬉しさを押さえることなど出来ない。もちろん色々な蟠りもあれば、素直にそれを喜べない心もある。だが嬉しいと感じる心は、どうあっても押さえることは出来ない。
 しかしそんなアッシュを現実に引き戻したのは、彼の手を強く握りしめてきたルークの手だった。はっとしてふり返ると、それを待っていたかのようにルークが腕にしがみついてくる。
 まずい、と思った瞬間にはしがみついてきた体が小さく震えていることに気がつく。アッシュはなにも考えずにルークの体を引き寄せると、一度強く抱きしめた。
「……大丈夫だ」
 小さく囁いてやれば、震えながらもかすかに頷くのが見える。両親が呆気にとられたようにこちらを見ているのに気がついたが、まさかここでルークを叱りつけるわけにもいかず、気恥ずかしさはこの際置いておくこととして、アッシュはルークの肩を抱いたまま両親の前に立った。
「アッシュ、ルーク……」
 呟きのような声で、シュザンヌが二人の名を呼ぶ。しかしルークはアッシュにしがみついたまま、そちらを向こうともしない。
「ただいま戻りました。父上、母上。……すでにお聞きになられているとは思いますが、今のルークは以前のままのルークではありません。どうぞ、無礼は多目に見ていただけますようお願いいたします」
「……やはり、わからないのね。私たちが」
 シュザンヌは落胆の声をあげたが、すぐに気を取り直そうとするように静かに微笑んだ。
「おかえりなさい、二人とも。そろって無事に帰ってきてくれただけで、今は十分よ。それに、これから一緒に暮らせばルークも私たちに慣れてくれると信じています。以前のようにね……」
「母上…」
 それでもやはり落胆の色を隠しきれないシュザンヌに、アッシュはなぜか胸の奥に重い石を一つ飲みこんだような違和感を覚えた。
「ここで暮らすあいだに、少しずつ思い出していけばいいわ。時間は十分にあるのだから」
 そう呟いてそっとルークに手を伸ばそうとしたシュザンヌは、気配を感じたルークがびくりと小さく震えたのに気がついて悲しげな顔になった。
「抱きしめることも、できないのね」
「申し訳ありません」
 アッシュはさりげなくルークを庇うように抱き寄せると、顔をしかめた。
「……もし差し支えなければ、ルークを部屋に連れて行ってもよろしいですか? こんな状態ですし、移動ばかりで疲れているようなので休ませてやりたいのですが」
「ええ、そうね。お部屋の支度は済んでいるわ。それと、あなたの部屋も用意させないとね」
「いえ、私はルークと同じ部屋でしばらく過ごします。これは、私以外には怯えますので」
「……そうだったわね。では、後で必要な物を届けさせるわ」
 シュザンヌは小さくため息をつくと、寂しげにアッシュに抱きついているルークの後ろ頭を見つめた。
「アッシュ、ルークのことをお願いね」
「……はい」
 その言葉を潮に、アッシュはルークを連れてその場を離れた。
 自分でも良くわからなかったが、一刻も早くこの場からルークを連れ出してやりたかった。



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