自鳴琴・7




 その扉を開くのは、パンドラの箱を開くようなものだった。
 円状に作られた中庭を挟んで母屋の向かいに作られた、まるで鳥籠のような白い建物。かつては自分の部屋であり、そしていま自分の手を必死に握りしめてあとをついて来るルークのものでもあった部屋。
 言うなれば、この部屋こそアッシュとルークの複雑な関係をそのまま表している場所とも言えるのだ。
 この扉の向こうにあるのは、懐かしい思い出と踏みにじられた記憶。扉の向こうを覗いた時、自分がどんな感情を抱くのか、アッシュ自身にも予想もつかない。
 だが、迷ったのは一瞬だった。
 必死に自分の腕にしがみついてきたルークを逃がしてやるための場所を、アッシュはここより他に知らない。今すぐ誰の目も届かない場所にルークを逃がしてやらなくては。それだけを考えていた。
 それでも、開いた扉のむこうから押しよせてきた記憶の残滓には、アッシュの足を部屋の入口に縫いつけたかのように押しとどめるだけの力があった。
 あの日いらい一度も帰らなかった、かつての己の部屋。薄暗いダアトの小部屋で何度も夢に見た、幸せの象徴だった白い部屋。胸の奥深くに眠る暗い水面に投げ込まれた石がさざ波を作るように、何かが押し寄せてくる。
 だがアッシュはかろうじてそれを飲みこむと、あらためて瞬いて部屋の中を見回した。そして、あらためて気がついたこの部屋のあまりに簡素な様子に、小さく目を瞠った。
 置かれている家具はどれも自分が子供の頃に使っていたものと同じ物だったが、調度品はあきらかにあの頃よりも減っている。貴族の子息の部屋としてはあまりにシンプルすぎるこの部屋は、そのせいか、より一層鳥籠めいて見えた。
 これが、『ルーク』が七年間暮らした部屋。
 予想外の光景に戸惑いながらも、アッシュはルークを連れて部屋の中に入った。しかし肝心のルークはここが自分の部屋だということもわからないのか、アッシュから離れようとしない。しかし興味はひかれたのか、目を丸くしてきょろきょろと部屋の中を見回している。
「……やっぱりわからねえのか」
 はじめからそれほど期待はしていなかったが、あらためてなんの反応も示さないルークに軽い落胆を覚える。
 どんなにルークに複雑な感情を抱いていたとしても、いまの彼の状態を見てさすがに溜飲が下がるという気持ちにはなれない。むしろ、哀れだと思う気持ちの方が大きい。
 だからといって自分が面倒を見る羽目になっていることは納得できないが、さりとてあっさりと見捨てる気にもなれない。厄介なことになったものだと、あらためてため息がこぼれる。
「ん……?」
 不意にくいっと袖を引かれてそちらを見ると、不安げに自分を見上げてくるルークの瞳と視線があった。
 自分とおなじ顔のはずなのに、ひどく子供っぽい表情。見上げてくる緑の瞳が怖いくらいに澄んでいて、まるで心の中まで見透かされそうな気がする。それに本能的な怖さを感じて押しやろうとすると、泣き出しそうに顔が歪められる。
 慌てて宥めるように乱暴に頭を撫でてやると、不思議そうに目を丸くしながらもルークは安心したようにアッシュの腕にしがみついてきた。
 仕方なくそのままルークを腕にしがみつかせたまま、アッシュはベッドの上に腰をおろした。
 それにつられたように、ルークも隣に腰をおろす。ぴったりくっついてくる体を引きはがすだけの気力もなく、アッシュはさせたいままにしておく。
 認めたくはないが、こうもずっとくっつかれているといい加減慣れてくる。邪魔なのはたしかだが、いまのルークを邪険に振り払うのがなんとなく気がひけるのも事実だ。
 どうにも、泣かれるのが苦手なのだ。あまりに子供っぽく、そして必死に泣かれるから。
 アッシュが知っていた以前のルークは、泣き出しそうな顔をしているのに泣かない少年だった。もちろんそれが勘に障ることもあったのだけれど、少なくともいまの彼に感じるようないたたまれない気持ちは感じなかった。
 小さな欠伸を聞きつけてそちらを見ると、ルークが眠たそうな顔で目を擦っていた。
 なにも分からない子供が初めての場所を連れ回されたあげく、沢山の見知らぬ人間に囲まれて無遠慮な視線にさらされたのだ。精神的にもまいっているのだろう。
 好意的な視線であったとはいえ、なにも知らないルークが注視されたことにストレスを感じたのはしかたがないことだろう。
 かつての仲間達の顔さえ、わからなかったのだ。彼らから寄せられる戸惑い混じりの好意でさえまともに受け止められないのに、それ以外の人間から向けられる感情を、いまのルークがまともに受け止められるわけがない。
 そこまで考えて、アッシュは何故自分がそんなにも必死にルークのことを考えているのだろうかと気付いて、愕然とした。
 ルークに対する複雑な想いは、消えたわけではない。
 それでも追いかけてくるその姿を、そして縋ってくるその手を振り払うことができない。
 あまりに以前と違いすぎるルークに対して、アッシュがまだ戸惑っているということもあるだろう。以前と同じようにきつく突き放すには、いまのルークの自我はあまりに弱々しすぎてためらってしまう。
 ジェイドに言われなくても、アッシュも理解している
 生まれたばかりの赤ん坊の世界が母親を中心としているように、いまのルークにとってアッシュは世界そのものなのだ。
 ふざけるなと叫びたい気持ちは、たしかにある。だが、だからといって放り出せないのも事実だ。
 完全に船をこぎはじめたルークをベッドの上に寝かせると、やはりそこは自分の匂いがして安心できるのか、素直に丸くなる。
 安らかな寝息を立てはじめたルークの子供っぽい顔を見下ろしながら、いったいこれからどうなるのだろうかという不安が、かすかに頭の中を掠める。
 はやく記憶を取り戻してもらわなければ、自分はこのままずっとルークにまとわりつかれその世話を焼くことになるのだろうかと思うと、頭が痛くなる。
 こんな面倒なことは、さっさと終わりにしたい。
 それでなくても、いまの記憶のないルークに自分は振り回されっぱなしなのだから。
 こんなことは、さっさと終わりにしたい。
 それがいまのアッシュの、偽らざる願いだった。



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