自鳴琴・8




 ちいさく扉の叩かれる音に顔をあげると、静かに開かれた扉の間からジェイドが顔を覗かせた。
「すこし、よろしいですか?」
 ジェイドはアッシュが頷くのを確認してからするりと部屋の中にすべりこむと、ベッドの上で丸くなっているルークの姿を見てかすかに眼を細めた。
「寝ちゃいましたか」
「疲れたんだろう」
 アッシュは目線でベッドからすこし離れたところにおかれた椅子の方を示すと、自分も音を立てないようにベッドから立ちあがってそちらへ移動する。
 一瞬部屋を出ることも考えたが、もし途中でルークが目を覚ましたときの騒動を考えると、迂闊なことは出来ない。それに、この屋敷の中で彼をほんのわずかな間でも一人きりにさせることに、なんとなく抵抗があった。
「お話ししておきたいことがありまして」
 席に着くなりそう切り出してきたジェイドに、アッシュはまたルークのことでなにか言われるのかと、思わずうんざりとした顔をした。
「随分とまいっているみたいですね」
「当たり前だ」
「ガイは、あなたに代わりたいと思っているみたいですが」
「代われるもんなら、今すぐにでも代わってやる。それに、別にそれはあいつに限ったことじゃねえだろう」
 ちくりと嫌味を返してやるが、ジェイドの表情は変わらない。食えない奴だと心の中で悪態をつきながらも、アッシュはジェイドの言葉を待った。
「実は研究所ではお話ししていませんでしたが、検査の結果に少々気になった点がありました」
「気になる点?」
 アッシュはぴくりと眉を跳ねあげると、責めるような目をジェイドに向けた。
「命に関わることではないですし、それに、すこし考えたいこともありましたので、あの時はお話ししませんでした」
「言い訳はいい。レプリカのことか?」
「いいえ、あなたのことで」
 そこで一拍おいて、ジェイドはアッシュの顔を見つめた。
「検査の結果、あなたの体内からは通常ではありえない量の第七音素が検知されました。ですがこれはあなたの体がローレライに修復されたと考えれば、説明がつく現象です。ヒーラーの使う回復魔法でも、体内にしばらくのあいだ第七音素が体内にとどまることは証明されていますし……」
「だが、気になることがあるんだろ。てめえは」
 遠回しに話をすすめるジェイド焦れて、アッシュは声に苛立ちをこめた。ジェイドは珍しくすこし言いよどむように指を軽く唇に押しあてると、ゆっくりと唇を開いた。
「研究所でお話しした、大爆発の定義を覚えていますか?」
「……ああ」
 アッシュの声に、苦いものが混じる。
「レプリカはオリジナルに上書きされ、その体も音素もすべてオリジナルに吸収されます。そしてレプリカは消える……」
 何度聞いても、気持ちのいい話ではなかった。
 もちろん自分が消えると思いこんでいたときも激しい憎しみと憤りでおかしくなりそうだったが、じつは自分が奪う側だったのだと知った時も、アッシュは苦い塊を呑みこんだような何とも言えない気持ちを感じずにはいられなかった。
 ルークと接触していなければ、あるいはそんな気持ちにはならなかったのかもしれない。だがアッシュはルークを知ってしまっていたし、その存在を目障りだと思いながらも心のどこかでその存在を許している部分もあったと、いまになってみればわかる。
 そんなアッシュの葛藤を感じ取ったのか、ジェイドは一瞬だけ憐憫にも似たまなざしをアッシュにむけた。だがすぐにその表情を消すと、珍しくすこし躊躇うような口調で告げた。
「たしかに大爆発によって、レプリカは消えます。ですが、記憶だけは残るんですよオリジナルの中にね……」
「記憶……?」
 最初、アッシュは何を言われているのか理解できなかった。だがゆっくりと理解がその言葉に追いついた途端、ハッとしたように目の前のジェイドに問いかけるようなまなざしをむけた。
「いま、なんて言った?」
「レプリカの記憶は、オリジナルの中に残ると」
 ジェイドはもう一度同じ言葉をくり返すと、薄く笑みを浮かべる。
「これは、あくまでも私の仮説のひとつです」
 ジェイドは眼鏡のブリッジを指先で押しあげると、まっすぐと射抜くようなまなざしをアッシュに向けた。
「あなたがたは、二人で戻ってきた。これを私は大爆発理論を覆す奇跡が起こったのだと、はじめ考えました。ですがあらためて考えなおしてみて、もう一つの可能性があることに気が付いたんですよ。もしかしたら大爆発はすでに起こったのではないか、とね……」
「だが、俺もレプリカもここに存在している」
「ええ。大爆発が起こったのなら、ルークはここに存在しないはずです。あなたの中にすべて吸収されてしまっているはずですから」
 ジェイドの声が、気のせいかすこし温度を変えて聞こえる。
「だったら、テメエの予想が外れたって事だろう?」
「そうかもしれません。ですが、ルークはその存在を失う代わりに記憶を失っている」
 ジェイドは一度言葉を切ると、眠っているルークの方へ視線をむける。
「……てめえは、なにが言いたい」
「確証がない段階で訊ねるのは私の本意ではないのですが、お聞きします。アッシュ、あなたの中にあなたの知らない記憶はありますか?」
「俺の知らない記憶?」
「ルークの記憶です」
 いっそ冷ややかにも聞こえる声で問われて、アッシュは思わず椅子から立ち上がりかけた自分をなんとか押さえ込みながら、ジェイドを睨みつけた。
「ふざけるなっ!」
「ええ、ふざけた話です。ですからあくまでも仮説だと言ったのですよ」
 動揺するアッシュに対して、ジェイドはあくまで冷静な顔でそれをいなす。
「俺の中に、あいつの記憶なんてない」
「わかっています。もしそうであれば、あなたはあのタタル渓谷で私たちの前に現れなかったはずです」
 見透かされているような口調は気に入らなかったが、確かにその通りだった。
 もしルークの記憶が自分の中にあることにあの時アッシュが気が付いていたら、いずれはジェイドたちに連絡を取ったかもしれないが、ひとまずルークと共に行方をくらませていただろう。
「ですから、あくまでも仮説なのですよ。しかし、こう考えると一番筋道の立った説明はつくんですよ。完全同位体による大爆発現象によってあなたが生き返り、そしてそこからあらためて何らかの力によってルークがあなたから再構成された。だが一度起こったコンタミネーションによって、記憶はあなたの中に残ったままルークが再構成されてしまった。そう考えれば、ルークの記憶が彼の中に残っていないことに説明がつきます」
「馬鹿馬鹿しい……」
「確かに、これはあくまでも机上の理論です。ですが、可能性のひとつとして考えられるだけの要因はあります」
「だが俺の中にこいつの記憶はない」
「どうやらそのようですね」
 舌打ちせんばかりに顔をしかめたアッシュに、だがジェイドはさほど落胆した様子はみせなかった。
「となると、もっと別に原因があるのか。あるいは……」
「あるいは?」
「再構築されたときに、記憶に関する音素だけ消滅してしまっていたか。ですが、それでは少々説明がつかないことがあります」
「なんだ?」
「ルークは歩くことを知っていました」
 それが何だという顔で見返すと、ジェイドは教えを諭す教師のような顔つきになった。
「生まれたばかりのレプリカは、赤ん坊と同じです。歩くことも話すことも出来ません。ですがルークは歩くことも出来ましたし、語彙は少ないようですが言葉も知っているようです。そして、なによりもアッシュ。あなたをあなたとして認識している」
「……たまたま、そのことに関してだけ記憶が残っていたんだろう。迷惑な話だ」
「たしかにそうかもしれませんね。歩くことは覚えていましたが、食事の仕方は忘れてしまっていたようですし。ただ、今回のルークの記憶障害には色々と不審な点が多すぎます」
 ジェイドは笑みを消すと、眉間に皺を寄せた苦い顔で自分を見ているアッシュをまっすぐと見返した。
「どうしてルークはあなたのことだけを覚えていたのか。……なんだか意味深な気がしませんか」
「てめえらが覚えてもらえていなかったからと言って、俺に当たるのはお門違いって物だと思うが?」
 苛立ちを嫌味に変えて返せば、さすがに表情にこそ出さなかったがジェイドから感じられる気配が冷ややかになるのを感じる。
 冷たい怒りの波動を感じてさすがにひるむ気持ちを感じないでもなかったが、アッシュはなんとかそれを抑えてジェイドを睨み返した。
「……アニスがね、言うんですよ」
 ふっと瞳を和らげたジェイドが、唐突に脈絡のないことを言い出す。
「ルークはもしかしたら、私たちのことを忘れたかったのではないか、とね」
 自嘲するような笑みを唇の端に刻んだジェイドに、アッシュはとっさになにも言えなかった。
 そして、ふと、いつでも憎たらしくなるくらいにこましゃくれたアニスの顔を思い出しながら、アッシュは彼女がどんな顔をしてそんなことを言ったのだろうかと思う。
 アッシュは、実際にはどんな経緯があってルークが彼らとの間にもう一度信頼を築いたのかを知らない。彼が直接知っているのは、ジェイドたちとルークの間に埋めがたい溝が出来上がった直後の、彼らの冷え切った間柄だけだからだ。
 特にあの少女は、辛辣だった。
 声高にルークを非難し、当てこするようにアッシュのことを持ち上げるような発言もしばしばしていた。だから彼女が自分自身を責めるような発言をしたのが、アッシュには意外だった。
 だがそのことを素直に、目の前の男に告げる気はなかった。ルークと彼らの間になにがあったのか興味をもてるほど、アッシュはまだルークに対して素直な気持ちにはなれていない。
「そう思う、心当たりでもあるのか?」
 アッシュから見れば異常なほどに馴れ合っていたように見えた、ルークと彼らの関係。それはあくまでも他人事だったし、関わり合いになりたいとも思っていなかった。
 だがそう思いながらも、彼らを見るたびに小さな苛立ちを覚えていたのは確かで、そのせいだろうか、口調が意地の悪い物になるのを押さえることが出来ない。
「正直言えば、なくもありません」
 だがそんなアッシュの問いに、さすがというかジェイドはそのすました表情を崩すことはなかった。これがガイあたりなら、あからさまに表情を変えただろう。そして、彼がガイと違ったのはそれだけではなかった。
「ですが、それを知っているのもルークだけです。なにもわからない私たちがそれを憶測で決めつけるのは、逆に彼のことを貶めていることになるのではないでしょうか」
 一瞬、挑むように赤い瞳が冷ややかな光を放つ。
「なにが言いたい」
「すべてが、わからないことだらけだと言うことを」
 そんな激しい目を向けてきてくせにするりと身をかわすようにそう言うと、ジェイドはふと表情をあらためた。
「私たちも、出来る限り色々と調べるつもりです。ですが、これだけは覚えておいてください。いまやルークにとってあなたは世界のすべてに等しい。彼を拒むことだけは、決してしないでください」
 だがアッシュは、咄嗟にその言葉に頷くことが出来なかった。言われていることの意味もわかるし、それが事実であることもきちんと頭では理解できている。それでも、素直に頷くことがどうしても出来ない。
「あなたもまだ混乱していることはわかっています」
 そんなアッシュに、ジェイドははじめて同情するようなまなざしをむけた。
「ですが、いま本当の意味でルークを守れるのはあなただけです。だから、よろしくお願いいたします」
 そう言って小さく頭を下げたジェイドに、アッシュはなにも言えなくなる。
 ちらりと視線をベッドの方へむければ、おそらく安らかに眠っているのだろうと思われるルークの朱色の髪が見える。その色をいやに目に痛く感じながら、アッシュは視線をジェイドの方へ戻した。
「……努力はする」
 それ以外の答えは、いまのアッシュにはできそうになかった。


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